日本人の考え方 「和をもって貴しとなす」

「すみません」の文化

外国から日本にやってきた人は、日本人がよく謝ること、よく譲りあうことに驚くかもしれません。自分が客として入ったお店で注文するでも「すみません」と謝る意味の言葉を使います。「すみません」「いえいえ、こちらこそ、すみません」若いお母さん達がお辞儀をしながら言っていたり、サラリーマンが「どうぞ、お先に」「そちらこそお先に」手を差し出して譲りあっている姿は街中で見られまます。

「すみませんは」日本人にとって魔法の言葉です。どのように話しかけたら良いかわからないときは、この言葉を使っておけば間違いありません。このときの「すみません」は、相手に時間を取らせることへの謝意になります。

日本人は失敗をしたときも、自分が間違っていたとわかれば、小さい子供は別として、大人は素直に謝ります。過ちを認めると不利になるから謝らないとは考えません。自分の不利よりその場が平穏であることを重要に考えます。誤ってその場を丸く収める、と言うのですが、外国の人が理解するのは難しいですね。

議論をしても相手を論破して追い詰めるのは苦手です。自分の意見を押し通すより、参加者全員の意見をまとめようします。そんなことは不可能だろうと思われますが、全員が自分の意見を少しづつ修正するので、時間はかかりますが可能になるのです。外国の人が見れば、なんと非効率なことをしているのかと思うでしょうが。

和をもって貴しとなす

この思考法の根底に「和をもって貴しとなす」という考えがあります。日本の歴史が始まったのは紀元前6世紀です。それから1200年ほど後の7世紀の始め、聖徳太子が、17条憲法という人々が守るべき道徳的な戒めを定めました。その第一条にこの言葉が書かれています。聖徳太子は第31代用明天皇の第2王子であり、摂政として政治を行っていました。太子は一度に8人の話を聞くことができたそうです。

「和」とは人が争わず仲良くしていることです。ただ自分の気持ちや感情を極端に抑えたり、相手の気持ちや意見を無視して上辺だけ仲良くするのではなく、お互いが相手を尊重して協調をすることです。「和をもって貴しとなす」は和を大切にする心は貴いことです。

聖徳太子が17条憲法を定めて以来、日本人はこの言葉を律儀に守ってきました。小さな国に分かれて戦っていた時代でさえ大切にしました。全てを自分のものにしようと争うより、一部を諦めても争いを避けたほうがお互いの損失が少ないのです。条件が譲れる範囲であれば、戦いを回避する方を選びました。

その考えが生まれて守り続けてられてきたのは、単一の王朝、ほぼ同じ民族、大部分が仏教徒、島国なので異民族の侵攻が殆どなかったなど、お互いに話の通じる集団で暮らすことができたからです。また、自然が豊かで水が豊富だったので徹底的に争う必要がなかった。世界でも稀な環境で生まれた考え方ですが、平和を望む人には良い考えと思いませんか。

京都のぶぶ漬け

このように和を重視する社会ですが、人が人である限り異なった主張があり、和を乱す人が出てきます。そういう時はどうするのでしょう。日本で最も古い都市である京都の社会にその典型が見られます。「京都のぶぶ漬け」という話があります。

ある人が京都の旧家を訪問します。話がはずみ、時間がどんどん経っていきます。そんなとき、旧家の主人が言いました。「だいぶ遅くなりました。ぶぶ漬けでも如何ですか」ぶぶ漬けとはお茶漬けのことで、ご飯にお茶をかけた軽食です。言われた客は慌てて「あぁ、もうこんな時間ですか。失礼しました」と席を立ちました。

このお話が理解できますか。普通だったら「ありがとうございます。頂きます」となりますよね。でもこの場合の「ぶぶ漬け」は主人の「そろそろお帰り下さい」との意思表示であり、客の対応が正しいのです。京都では相手が気分を害さないように、要求を非常に婉曲に伝える習慣があるのです。

流石に現代はここまで極端な例はありません。「京都のぶぶ漬け」の話は、京都人の閉鎖性や嫌味さの象徴として面白く語られます。ただ日本社会は、相手に対する要求を、京都ほど極端で無くても、直接的でなく婉曲に伝える習慣があります。「そろそろお帰り下さい」でなく「良い時間になりましたね」のようになります。角が立たないことが重要なのです。

和を乱す者は静かに排除される 

では、集団の中で和を乱す人がいるとどうなるのでしょう。まずその人に婉曲的な表現の和を乱していますよのメッセージが伝えられます。「あなたは間違っている」と直接的に言われるのは稀です。メッセージが何度か発信されても状態が変わらなければどうなるか。和を乱す人の周囲から集団のメンバーが去って行きます。

和を乱す人は現実的に仲間外れにされます。その人と争わずに静かに排除するのです。これは怖いですね。それに陰気な感じが強い。外国人にとって、この和を乱す感覚や排除の基準を理解するのはとても難しい。排他的で冷たいと思ってしまうのも当然です。

それもそのはず日本人でも分からないときがあるからです。和を乱した感覚がわからない、伝えられたメッセージが理解できないことは良くあります。排除する側も、排除の理由がなんとなく共有された雰囲気なので、相手に明確に伝えるが難しい。「あなたのここが間違っている」と議論すれば良いのですが、争いを避ける意識が強いので議論に至りません。

この争うこと無く集団の秩序を守る方法は、長い歴史を経て生まれてきましたが、第3者には非常に分かり難いものです。同じ意識を共有する者だけが理解できる、和の文化の暗黒面といえるでしょう。しかしこのような状況に陥るのは珍しい。その主な原因は3つくらいになります。一つは 文化、習慣を守らない、ふたつ目は 社会のルールを守らない、三つ目は攻撃的であることです。これらに気をつければ暗黒面のパワーが発揮されないのです。

この習慣を知ると、日本人は何と陰険で意地悪な民族なのだろうかと感じますが、実際はそうではなく親切で陽気で真面目な人たちです。指輪物語のホビットを礼儀正しくした感じです。恥ずかしがりであるのも似ています。その日本人に脈々と日本人に受け継がれているのが「和をもって貴し」の精神なのです。

だから現代の日本人も、良く謝り、良く譲り、争いを避けます。「すみません」「どうぞ」「お先に」などの言葉が街中に溢れています。その一方、人を罵る大声や口論、けたたましいクラクションは少なく静かです(最近は少し変わってきているようですが)お互いが譲りあえば口論やクラクションの必要はありません。

「和をもって貴しとなす」の考えが静かで穏やかな街、社会を作っています。日本人はどうしてすぐに謝るのか、どうして自己主張をしないのかと不思議に思ったら、「和をもって貴し」を思い出してください。日本人は、個人が少し損をしても社会全体が得をする生き方を選んでいます。最優先が争わないことです。弱々しい生き方で嫌かもしれませんが、馴れると和の世界はけっこう良いものです。