日本人の考え方 「和をもって貴しとなす」

2024年10月18日

「すみません」の文化

外国から日本にやってきた人は、日本人がよく謝ること、よく譲りあうことに驚くかもしれません。自分が客として入ったお店で注文するときでも「すみません」と謝る意味の言葉を使います。「すみません」「いえいえ、こちらこそ、すみません」若いお母さん達がお辞儀をしながら言っていたり、サラリーマンが「どうぞ、お先に」「そちらこそお先に」手を差し出して譲りあっている姿は街中で見られまます。

日本人にとって「すみませんは」魔法の言葉です。どのように話しかけたら良いかわからないときは、この言葉を使っておけば間違いありません。このとき「すみません」は、相手に時間を取らせることへの謝意になります。

日本人は失敗をしたときも、自分が間違っていたとわかれば、小さい子供は別として大人は素直に謝ります。過ちを認めると不利になるから謝らないとは考えません。自分の不利よりその場が平穏であることを重要と考えます。自分が誤ってその場を丸く収める、のですが外国の人が理解するのは難しいですね。

議論でも相手を論破して追い詰めるのは苦手です。自分の意見を押し通すより、参加者全員の意見をまとめようします。そんなことは不可能だろうと思われますが、全員が自分の意見を少しづつ修正するので、時間はかかりますが可能になるのです。外国人はなんと非効率なことをしているのかと思うでしょうが。

和をもって貴しとなす

この思考法の根底にあるのは「和をもって貴しとなす」という考えです。日本の歴史が始まったのは紀元前6世紀です。それから1200年ほど後の7世紀の始め、聖徳太子が、17条憲法という人々が守るべき道徳的な戒めを定めました。その第一条にこの言葉が書かれています。聖徳太子は第31代用明天皇の第2王子であり、摂政として政治を行っていました。太子は一度に8人の話を聞くことができたそうです。

「和」とは人が争わず仲良くしていることです。ただ自分の気持ちや感情を極端に抑えたり、相手の気持ちや意見を無視して上辺だけ仲良くするのではありません。お互いが相手を尊重して協調をすることです。「和をもって貴しとなす」は和を大切にする心は貴いことを言います。

聖徳太子が17条憲法を定めて以来、日本人はこの言葉を律儀に守ってきました。小さな国に分かれて戦っていた時代でさえ大切にしました。全てを自分のものにしようと争うより、一部を諦めても争いを避けたほうがお互いの損失が少ないと考えました。譲れる範囲の条件であれば戦いを回避する方を選びました。

その考えが生まれて守り続けてられてきたのは、単一の王朝、ほぼ同じ民族、大部分が仏教徒、島国なので異民族の侵攻が殆どなかったなど、お互いに話の通じる集団で暮らすことができたからです。また、自然が豊かで水が豊富だったので徹底的に争う必要がなかった、ことから生まれた世界でも稀な考え方ですが、平和を望む人には良い考えだと思いませんか。

京都のぶぶ漬け

このように和を重視する社会ですが、人が人である限り異なった主張があり、和を乱す人が出てきます。そういう時はどうするのでしょう。日本で最も古い都市である京都の社会にその典型が見られます。「京都のぶぶ漬け」という話があります。

ある人が京都の旧家を訪問します。話がはずみ、時間がどんどん経っていきます。そんなとき、旧家の主人が言いました。「だいぶ遅くなりました。ぶぶ漬けでも如何ですか」ぶぶ漬けとはお茶漬けのことで、ご飯にお茶をかけた軽食です。言われた客は慌てて「あぁ、もうこんな時間ですか。失礼しました」と席を立ちました。

このお話が理解できますか。普通だったら「ありがとうございます。頂きます」となりますよね。でもこの場合の「ぶぶ漬け」は主人の「そろそろお帰り下さい」との意思表示なのです。京都には、相手が気分を害さないように要求を非常に婉曲に伝える習慣があります。

流石に現代はここまで極端な例はありません。「京都のぶぶ漬け」の話は、京都人の閉鎖性や嫌味さの象徴として面白く語られます。日本社会は、相手に対する要求を、京都ほど極端で無くても直接的でなく婉曲に伝える傾向があります。「そろそろお帰り下さい」でなく「良い時間になりましたね」になります。角が立たないことが重要なのです。

和を乱す者は静かに排除される 

では、集団の中で和を乱す人がいるとどうなるのでしょう。まずその人に婉曲的な表現の和を乱していますよのメッセージが伝えられます。「あなたは間違っている」と直接的に言われるのは稀です。メッセージが何度か発信されても状態が変わらなければどうなるか。和を乱す人の周囲から集団のメンバーが去って行きます。

和を乱す人は現実的に仲間外れにされます。その人と争わずに静かに排除します。これは怖いですね。それに陰気な感じが強い。外国人にとって、この和を乱す感覚や排除の基準を理解するのはとても難しい。排他的で冷たいと思ってしまうのも当然です。

それもそのはず日本人でも分からないときがあるからです。和を乱した感覚がわからない、伝えられたメッセージが理解できないことは良くあります。排除する側も、排除の理由がなんとなく共有された雰囲気なので、相手に明確に伝えるが難しい。「あなたのここが間違っている」と議論すれば良いのですが、争いを避ける意識が強いので議論に至りません。

この争うこと無く集団の秩序を守る方法は、長い歴史を経て生まれてきましたが、第3者には非常に分かり難い。同じ意識を共有する者だけが理解できる、和の文化の暗黒面といえるでしょう。このような状況に陥る原因は、三つくらいになります。一つは 文化や習慣を守らない、二つ目は ルールを守らない、三つ目は攻撃的であることです。これらに気をつければ暗黒面のパワーは発揮されません。

この暗黒面を知ると、日本人は何と陰険で意地悪な民族なのだろうと感じますが、実際はそうではなく親切で陽気で真面目な人たちです。指輪物語のホビットを礼儀正しくした感じです。恥ずかしがりであるのも似ています。「和をもって貴し」はそんな日本人が脈々と受け継いでいる精神なのです。

現代の日本人も、良く謝り、良く譲り、争いを避けます。「すみません」「どうぞ」「お先に」などの言葉が街中に溢れています。その一方、人を罵る大声や口論、けたたましいクラクションは少なく静かです(最近は少し変わってきているようですが)お互いが譲りあうので口論やクラクションの必要がないのです。

「和をもって貴しとなす」の精神が静かで穏やかな街や社会を作っています。日本人はどうしてすぐに謝るのか、どうして自己主張をしないのか、と不思議に思ったら「和をもって貴し」を思い出してください。日本人は、個人が少し損をしても社会全体が得をする生き方を選んでいます。が争わないことが最優先です。弱々しい生き方に見えるかもしれませんが、馴れると和の世界はけっこう良いものです。