日本人の考え方 「和をもって貴しとなす」

「和をもって貴しとなす」少し前まで誰でも知っていた言葉です。これを言ったのは聖徳太子です。聖徳太子は飛鳥時代の皇太子で日本人なら知らない人はいない、と言いたいところですが、Z世代といわれる若者たちが果たして知っているか少し自信がありません。でもそんなZ世代の日本人にも「和」を大切に心が脈々と引き継がれているのは間違いないでしょう。
すみませんの文化
外国から、日本にやってくると日本人がよく謝ることや譲りあうことに驚くかもしれません。
「すみません」(すみません)レストランで注文するときです。
「すみません」(すみません)お店で商品を買うときもです。
どう見ても謝る状況ではないのに「すみません」と謝ります。街中至るところでこの言葉が聞こえます。若いお母さんが幼稚園の前でお辞儀をしながらお互いに言っています。
「すみません」(すみません)
「いえいえこちらこそすみません」(いえいえこちらこそすみません)
かと思えば、別の場所でサラリーマンが、手を差し出して何か譲りあっています。
「どうぞ、どうぞ」「そちらこそ、お先にどうぞ」(どうぞ、どうぞ)(そちらこそ、お先にどうぞ)
これは日本で見られる日常風景です。
「すみません」は魔法の言葉です。他の人にどう話しかけたら良いかわからないときは、この言葉を使えば間違いありません。「すみません、ちょっといいですか」も良いですね。これは相手に手間を取らせることへの謝意です。
「すみません」は本来は謝罪の言葉です。「済む」という動詞に打消しの助動詞「ぬ」がついて「すまぬ」になりました。、その丁寧語が「すみませぬ」です。それが「すまない」に変化して謝罪の意味を持つようになりました。この言葉は明治時代から使われ出したそうです。そのうちいつの間にか呼びかけや謝意を表す言葉になりました。
日本人はこの「すみません」を頻繁に使います。失敗をしたときや自分が間違っていると思ったとき、小さい子供は別ですが、大人は直ぐにすみませんと謝ります。そうして争いになるのを避けます。外国の人は謝ると自分が不利になりと謝らりません。中国の人なんか絶対に謝らない。日本でも特殊な世界の人は謝りませんが、普通の人は謝ると自分が不利になるとは考えないのです。外国人は、この考え方を理解するのは難しいかもしれません。
この考え方は、日本人がディベートが弱いのに繋がっています。相手を議論で論破するのは苦手です。自分の意見を押し通すより全員の意見を纏めることを重視します。そんなことは不可能に思えます。でもみんなが自分の意見を修正していくので最後は纏まります。そのかわり時間がかかります。外国人がこれを見ればなんと非効率なことかとなりますが、それが日本流なのです。この思考法の行にあるのが「和をもって貴しとなす」です。

和をもって貴しとなす
日本の歴史の始まりは紀元前6世紀頃です。聖徳太子は、7世紀の始めに第31代用明天皇の第2王子として生まれました。大人になると摂政として政治を行いました。太子は、8人の話を一度に聞きながら、答えられる天才でした。子供の頃は、厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれたので、イエス・キリストと関係があるのではないかと言われましたが、さすがにそれはないようです。
聖徳太子は摂政になると人が守るべき道徳的な戒めを17条憲法として定めました。その第一条に「和をもって貴しとなす」があります。太子が言う「和」は、人と人が争わず仲良くすることですが、自分の気持ちを無理に抑えたり相手の気持ちを無視することではありません。上辺だけ仲良くすることでもありません。他人を尊重したうえで協調しようということです。
日本人は、14世紀の間、太子の教えを律儀に守ってきました。戦国時代でさえ、小国に分かれて争いながらその教えを大切にしました。当時の大名は、戦って全てを奪うより、戦いを避けて損失を減らすほうが得策と考えました。負け戦と分かっても戦う過激さは持っていましたが、ギリギリ譲れる範囲なら戦いを回避しました。「和」の教えを忘れなかったのです。

京都のぶぶ漬け
和を重視する社会でも、人が人である限り争いは起こります。和を乱す人は出てきます。それを防ぐには何をするか。例として日本の古都である京都の「京都のぶぶ漬け」の話を紹介します。
ある人が京都の旧家を訪問しました。話がはずみ時間がどんどん経っていきます。
「だいぶ遅くなりました。ぶぶ漬けでもどうですか」(だいぶ遅くなりました。ぶぶ漬けでもどうですか)
旧家の主人が言います。ぶぶ漬けとはお茶漬けのことです。
言われた客は慌てて席を立ちました。
「あぁ、もうこんな時間ですか。失礼しました」(あぁ、もうこんな時間ですか。失礼しました)
この話、が理解できますか。ありがたくご馳走になるのが普通ですね。でも違うのです。
「ありがとうございます。頂きます」(ありがとうございます。頂きます)
でも違うのです。「ぶぶ漬け」は主人の「そろそろお帰り下さい」との意思表示です。相手が気分を害さないように要求を非常に婉曲に伝える慣習に従ったのです。古い都市である京都にはそんな慣習が残っています。「京都のぶぶ漬け」は京都人の閉鎖性や嫌味さの象徴です。
今は流石にこんな極端な例ありませんが。「そろそろお帰り下さい」と率直に伝えるのは稀で「良い時間になりましたね」と婉曲に伝える習慣は残っています。それを理解するには、婉曲に伝える能力と察する能力が必要です。日本はなかなか難しい社会ですね。

和を乱す者は静かに排除される
このような婉曲な表現を当たり前にする社会に、和を乱す人が現れたらどう対処するのでしょう。最初は婉曲的な表現で「和を乱している」とのメッセージがその人に伝えられます。「あなたは和を見出しているから止めなさい」と直接的に言われることは稀です。それが何度か続いきます。それでも状況が変わらなければどうなるか。その人の周囲から人が居なくなります。仲間外れでなく置いてけぼりにされるのです。
知らないうちに静かに排除される。これは怖いですね。それに陰湿です。自分が和を乱していたと気づかなかった人もいるでしょう。「それならはっきり言ってくれればよいのに」と叫びたくなります。特に外国人は「和を乱していた」と理解するのはとても難しいことです。そんな事に会えば日本は排他的で冷たいと思うのは当然です。
これは日本人でも分からないときがあります。和を乱している意識がない。伝えられたメッセージが理解できないときがあります。それどこらか排除する人たちがその理由を明確に理解していないことがあるのです。排除の雰囲気だけが共有されて進んでしまう。親しい人も雰囲気なので理由を伝え難いし、気を悪くさせたり喧嘩になったりしたら嫌だから言うのを躊躇ってしまいます。そのうち、排除側も排除される側も問題が分からないまま進んでいく。もう悲劇です。
この排除の習慣は長い歴史から生まれました。同じ意識を共有する者だけが理解できる、分かり難い何とも意地悪な方法です。和の文化の暗黒面と言えますね。ですがこの暗黒のパワーは、日本の文化や習慣、ルールに対して攻撃的にならなければ発揮されることはめったにありません。

日本人はよく謝りよく譲り、争いを避けます。「すみません」「どうぞ」「お先に」などの言葉は街中に溢れています。人を罵る大声や口論、けたたましいクラクションの音は聞こえません。最近は少し変わってきているようですが。「和をもって貴しとなす」の精神が静かで穏やかな社会を作っているのです。
和の教えは、単一の王朝、ほぼ同じ民族、大部分が仏教徒、島国なので異民族の侵攻が殆どなかった、水や食料が豊富だったので徹底的に争う必要がなかった、そんな条件が揃って成り立った世界でも稀な考え方です。それ故に分かりにくく、弱々しい生き方に思えるかもしれませんが、平和を守るには良い考えだと思いませんか。
日本人は、どうしてすぐに謝るのか、どうして自己主張をしないのか、と不思議に思ったら「和をもって貴し」を思い出してください。日本人は自分の損よりも社会全体が得をすることを選ぶのです。







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