とかくこの世は生きづらい

2025年4月11日

知に働けば角が立つ。情に掉させば。意地を通さば窮屈だ。とかくこの世は生きづらい。                                   

夏目 漱石

夏目漱石の有名な言葉である。世界を席巻したコロナが収束しても、世の中はなぜか息苦しく生き辛い。その閉塞感を生み出す元凶は技術の発達ではないだろうか。たとえばSNS、そこは不満と批判が渦巻く非寛容な世界である。いくらポストしても心は晴れない。パソコンもスマートフォンも無かった漱石の時代、人の心はもっと穏やかだった。

生き辛さはあったが寛容もあった。そんな社会は懐かしいが戻りようもない。世界の賢者たちもコロナ以前には戻らないと言う。格差と分断が進み、益々非寛容になり、バーチャルやリモート、ロボットは肌の触れ合いを無くす。なんとも生き難い世だ。

最新技術は生きづらさを加速する

「2025年を制覇する破壊的企業 SB新書」に近未来の働き方のモデルが描かれている。AIや通信技術の進化によって会議や面談は全て自宅で済ませられる。ワイワイと集まる会議や移動は必要が無くなる。効率的だがそんな働き方は楽しそうに思えない。人は、家に籠もって無駄話もなければ握手もしない、そんな仕事に満足できるのだろうか。

人は社会性が強い。身体が触れ合うことで安心や快感を感じるようになっている。脳は肉体が触れ合うと幸福感ホルモン、オキシトシンを分泌する。オキシトシンは認知症も改善する。人は触れ合いの無い社会で幸せに暮らせない。非接触の社会は人を幸せにしないのである。

人類の歴史はコロナやペスト、コレラ、スペイン風邪などのパンデミックの歴史でもある。感染症の最高の対策は人の接触を無くすことが最良と分かっていても、病気が収束すると街に集まってきた。人は人である限り集まる。肉体の接触を強く求めるのである。

仏教は人の根本を、眼、耳、鼻、舌、身(皮膚)、意(精神)の六根とする。現代の最新技術は、眼と耳の感覚を共有はできるが、鼻、舌、身(皮膚)、意(精神)はできない。人は、六根が揃って一人前だからバーチャルやリモートの中の人は不完全な存在なのである。

人生を良くするもの

災害は忘れたときにやってくる。医学の発達によって世界的なパンデミックはもう起こらないと思っていた。そんな人をあざ笑うようにコロナはやってきた。人の世は行き辛くできている。しかし、同じくらい人を癒やす物も常にある。宗教や哲学、旅、本。宗教や哲学は人に生きる意味を教える、旅は好奇心を満たし新たな発見をもたらす、本はそれらを伝える重要なツールだ。

人は古代から旅をした。プラトンやヘロトドスは欧州の辺境に足を延ばした。三蔵法師は中国からインドに向った。イブン・バットゥータは欧州から中東を巡った。彼らの旅は旅行記になり人たちに読まれた。マルコポーロのジパング伝説は新大陸発見につながった。

今の世界は本を読むのは自由だ。パンデミックであってもお金がなくても本は読める。禅に遊戯三昧という言葉がある。良い時も悪い時もそれなりに楽しもうという意味である。どのような時でも場所でも愉しみはある。旅に出られなくても本の中にもに旅はある。

科学者は非接触の技術を開発しようと腐心して、他人といつでも話せるSNSを生み出した。医者は老いや死を無くそうとしている。だがその先の世界で人は幸せに生きられるのだろうか。未来に生まれる物は分からないが、過去に社会をより良くしてきた物は分かる。とかく棲みにくい世である、少しでも良くする物を見つけたい。