禅語は最高 遊戯三昧 いい時も悪い時も楽しもう

2024年9月13日

禅は難しいし禅語も難しい、だから勝手に解釈して勝手に良いと思っている。慧能禅師や道元禅師、一休さんや良寛さんも「それで良い、それで良い、Let it be じゃ」と言ってくれそうな気がする。

今日は「遊戯三昧」だ。

無問慧門の言葉

遊戯(ゆうぎ)と書いて(ゆげ)と読む。遊戯(ゆげ)は遊びではなく仏様や菩薩様がいろんな時を楽しむ姿をさす。三昧は何かに没頭することである。遊戯三昧は、良いときも悪いときも無心に楽しむことを言う。

遊戯三昧の風景は、空は程よく晴れて風は温かく池に蓮の花が咲いている、聞こえてくるのは木の葉が揺れる音、鳥の囀りや虫の声、自然の音だけである。菩薩様は湖畔を散策され、お釈迦様は菩提樹の下で思索をされている。時間はゆっくりと流れている。このような感じかもしれない。

生死岸頭に於いて大自在を得て、六道四生の中に向かって遊戯三昧ならん

無門関

遊戯三昧は、12世紀に生きた禅僧、無問慧門が「無門関」に残した言葉である。慧門は眠気を醒ますために頭を柱に打ちつけたり、悟りをひらけなければ火中に身を投じると言うほど激しい修行をした。修行三昧の生活を過ごしたはずなのに、慧門が遊戯三昧という言葉を残したのは、その境地に入るのがいかに難しいのかを示している。禅僧が到達するのが難しい境地に、凡人が近づくのが難しいのは当たり前である。

人は色んなことが気にかかる

今、社会は三昧に満ちている。読書三昧、趣味三昧、釣り三昧、すし三昧まである。だが、よほどお腹が空いていたら別だが無心で寿司を食べる人はいないだろう。仕事三昧でも仕事中の男の頭は雑念の塊だ。三昧は意外と難しいのである。なのに凡人は好きなことに没頭するのは簡単だと思ってしまう。

釣りの最中にふと明日の支払いを思い出してしまう。明日支払いをすれば良いのに磯からネットバンキングで振り込もうとしたりする。そうして操作が上手くいかなかったらもう釣りどころでない。

妻との些細な喧嘩が気になり仕事に集中できない。妻が話しかけているのに気がつかなかった。「また私の話を聞いていない、あなたはいつもそう」そこからはお決まりのコースである。他のことに気を取られていた自分が悪かったのだ。だが仕事に出ている間は妻と仲直りできない。ラインで謝っても既読にならないと余計に気にかかる。

したいと思ってもできないことがある。気にかかってもしなくても良いことがある。振込は明日で間に合うのだから釣りに集中すれば良い。仕事に終えてすっきりした気分で帰ったほうが妻に誤りやすいだろう。今に集中することが良い結果につながる。

今を楽しもう

アンディッシュ・ハンセンは著書「スマホ脳」で、人類は草むらでガサガサと音がすればライオンがいると逃げてきた、そうして生き残ってきた、人は気を取られるようにできていると書いている。


人は上手くいっているもそうでないときも未来を心配する。心配をするようにできている。人はそうなっていることを知るのが重要である。それを知って無用な心配をしないように心掛ける。意識的に集中して楽しむ。集中して達成できれば、未来の心配が減り過去の後悔も減る。だから今を楽しむ。

良いときも悪いときも楽しむのが「遊戯三昧」の境地だ。今やっていることに集中できないときは「遊戯三昧」を思い出そう。