禅語は最高 自性清浄心 本来の心は真っ白を忘れない
禅は難しい。禅語も難しい。だから勝手に解釈して使っている。それで良いと思っている。案外、慧能禅師も道元禅師も、一休さんも良寛さんも「それで良い、それで良いんじゃよ、Let it be じゃ」と言ってくれそうだ。今日は、「自生清浄心」である。
人は生まれたときから仏性を持っている。自分の仏性を自性という。自性は心と置き換えても良い。自性の本質は清浄である。人が生まれたとき心は真っ白だ。人は自性を曇らせないように生きたいがそれがなかなか難しい。仏教では自性が清浄であることは重要である。
自性が曇ると馬鹿なことをする
世の中には自性を曇らせた人がたくさんいる。むやみやたらに他人を批判したり攻撃する人がいる。そのような人にとってSNSはまさに鬼に金棒である。料理の出し方が悪い、レストランに犬を連れて入れなかったとか、匿名を良いことに攻撃する。
普通の人からすれば、彼らの怒りは些細なことだ。サービスが気に入らなければ次から行かなければ良い。犬を連れて入れる店を探せばよい。社会には犬が嫌いな人もいる。相手のことを何も考えずSNSで怒りをぶちまける。車掌を呼んだのに来ないから電車の緊急停止ボタンを押してやった、と呆れたことする奴までいる、自分だけが正しい訳ではない。
車掌はあなたの執事じゃないよと言いたいだろう。みんなが使う回転寿司の箸を舐めたり、回っている寿司に消毒用アルコールをかけたりする。ラーメン屋におかれたニンニクを必要以上に食べる。その動画をわざわざ投稿して悦にいる。それが面白いと思うのだからどうしようもない。その結果大勢から批判され警察のご厄介になる。ピラニアのいる湖に血を流しながら飛び込んでいくようなものだ。このような人間は馬鹿と言われても仕方がない。彼らの自性はどうなっているのか。
自性清浄心 あなたの自性は真っ白なものである
彼らの自性も生まれたときは真っ白だったはずである。それは赤ん坊を見ればわかる。性格が歪んだ赤ん坊や悪人の顔をした赤ん坊はいない。ただあどけないである。他人を攻撃ばかりする人も、文句ばかり言っている人も赤ん坊だった。彼らの自性は清浄だったが大人になるにつれて曇ってしまった。
もともと真っ白な自性は欲望や経験によって曇りやすい。人は自性が曇ると馬鹿なことをする。だから常々自性が曇っていないか気をつけねばならない。腹が立ったら自分は正しいのかと立ち止まって考える。醤油さしを舐めたいと思ったら欲求が歪んでいないかと考えてみる。感情に流されそうになったら一呼吸して自性が曇っていないかと問いかける。
自性が曇っていれば気づくものだ。気づけば洗い流せばよい。自性はもともと真っ白であることを忘れてはいけない。洗い流せることを信じる気持ちが大切なのだ。自性清浄心、自性が曇っていないかいつも注意しよう。
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