禅語は最高 「妙手多子無し」 人生に楽な道は無い

禅は難しい。禅語も難しい。だから勝手に解釈して使っている。それで良いと思っている。案外、慧能禅師も道元禅師も、一休さんも良寛さんも「それで良い、それで良いんじゃよ、Let it be じゃ」と言ってくれそうだ。
今日は「妙手多子無し」である。

妙手多子無し
「妙手多子無し」は碧巌録にある。禅語は解りにくいがこの言葉もたいへん難しい。妙手は将棋や碁の優れた指し手をいう。多子は、細かくゴタゴタした様子を指す。「多子無し」となると、ゴタゴタした多子が無いことだから、スッキリしたことになる。妙手多子無しは、優れた手はすっきりしているになる。多子無しは端的の意味もあるから、妙手は端的な手でもある。優れた指し手は端的とは、どのような意味を持つのか。
臨済禅師と黄檗禅師
臨済禅師は臨済衆の開祖である。彼は、若い頃、先輩の僧から黄檗禅師のもとへ修行にいくように勧められた。相手は名高い高僧である、行くと決心したが何を問えば良いか思いつかない。先輩僧に聞くと「仏法で一番大事なところはなんですかと問いなさい」と言われる。
臨在は、黄檗のもとを訪れ問う。「仏法で・・・」
黄檗は、質問が終わらないうちに、いきなり棒を手にとり臨済を打ち、追い出してしまう。
臨済は「・・・」何が起こったのかわからない。
再び勧められて黄檗のもとを訪れる。「仏・・・」
黄檗はまたも棒を取り臨済を打ちすえる。臨済、呆然である。
それでも、気を取り直して三度訪れる。
今度は口を開こうした途端打ち据えられた。もう何がなんだかわからない。
臨済はさすがに落ち込んだ。それはそうだろう、口を開く前に叩かれるのだ。今ならたいへんなパワハラである。ただ禅寺に目安箱も無ければコンプライアンス部門もない。わけが分からないので、師匠の大愚禅師に相談した。
大愚は言う「黄檗禅師はなんと親切なことか、おまえのためにヘトヘトになってくれたのだ」
臨済は気づいた「黄檗の仏法、多子無し」
黄檗の仏法は夾雑物の無い端的なものだった。仏法で一番大事なところは人に聞くようなものではない。人に聞いて分かるようなものではない。黄檗はそれを臨済に教えたのである。

多子無しは、夾雑物がなく端的なこと
壮子に「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと甘酒の如し」とある。良い酒は夾雑物が無いので悪酔いをしない。君子の交わりは夾雑物がないので水のように淡いがいつまでも続く。上善如水である。「多子無し」はいつでもどこでも大切らしい。
禅は言葉の解釈にとらわれるのは良くない。意味を直感で理解しなくてはいけない。黄檗は言葉でなく叩いた痛みで教えた。

人生に妙手はない
妙手はシンプルであり単純である。特別な手は無い。人は何かをするとき楽な方法や手抜きを考えてしまう。人生でも楽な道や抜け道を探そうとする。しかしそんな道は初めから無い。抜け道を探して時間を失うより真っ直ぐに進んだほうが早い。
画家はデッサンを何度も繰り返し、音楽家はひたすら演奏を続ける。アスリートもトレーニングに没頭する。そのような厳しい訓練を経て一流の芸術家やアスリートになる。練習を繰り返す以外に道はない。それを省く妙手は無いのである。
現代は効率化の時代である。社会は生産性アップや効率化を重視する。みんなが常に妙手を探している。YouTubeだ、株だ、FXだと、みんなが楽をして儲けようと夢中になっている。社会全体が血眼になって妙手を探している。しかし儲ける人は僅かだ。その僅かな人たちも専門家として努力をしている。決して楽はしていない。
人生も同じで妙手多子無しである。目標を持ったならそれに向かってひたすら歩き続けるしかない。抜け道は無い。行き詰まったと思ったら「妙手多子無し」を思い出そう。
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