禅語は最高 本来無一物 物に囚われるな

2024年11月8日

禅は難しいし禅語も難しい、だから勝手に解釈して勝手に良いと思っている。慧能禅師や道元禅師、一休さんや良寛さんも「それで良い、それで良い、Let it be じゃ」と言ってくれそうな気がする。

今日は「本来無一物」である。

In the courtyard of an old Chinese temple in Kunming, China, with the main worship hall in the background.

六祖壇教の言葉

本来無一物は、唐代の禅僧、六祖慧能の説法集である六祖壇経にある。人は本来生まれてくるときは何も持っていない、悩みやこだわりは後から身につくものだ。本来無一物を知れば多くの悩みから解放される。

慧能は貧しい家に育ち読み書きができなかった。禅寺に入門できたが禅僧になれず「米つき」をする寺男として住み込んだ。ある日、彼は師である神秀禅師が壁に詩を書くのを見た。「身はこれ菩提樹、心は明鏡台の如し、時々に勤めて払拭し、塵埃を有らしめるなかれ」とある。

慧能は字が読めないので若い僧に頼んで読んでもらう。「人の身体は悟りの花を開くための菩提の樹である、心は鏡のように綺麗である。日々努力して埃がつかないようにしなくてはならない」慧能はその詩の意味が腑に落ちない。彼は悩んだ末に、その僧に自分の詩を書いてもらった。

「菩提もと樹無く、明鏡また台にあらず、本来無一物、いずれの処に塵埃をひかん」

「菩提樹や明鏡はもとからあったものではない。本来は何も無い。本質は無であるからそこに塵埃は付かない。塵埃を払拭するという意識が残っている限り悟りは開けていない。悟りに至れば塵埃を意識することはない」と書いた。

禅寺の上下関係は厳しい。字も書けない寺男が高僧に反論したのだ。寺は騒然となり、無礼であるから慧能を寺から追放しろと言う者も現れた。

慧能が現代の学生だったら

現代で言えば、寺を米国のMITとすると、高名な数学者が黒板に方程式を書く。アルバイトの青年(学生ではない)が偶然にそれを見かけた。彼はその方程式は美しくないと思った。彼の気持ちは強くなるばかりだ。彼は英語が書けなかったが、幸いにも方程式は数字と記号である。

ついに自分の方程式を教授の方程式の下に書いた。その方程式は教授のものより美しかった。学内に色々な意見が飛び交い騒然となる。そのような状況だったかもしれない。

慧能は寺を追い出されそうになる。神秀はそれを止めた。神秀は慧能の才能を高く評価した。憤る弟子たちに告げた。「禅の世界に地位や小難しい知識は必要ない」慧能は貧しく生まれたときから何も持っていなかった。字が読めないので無用な知識も持たなかった。それゆえ本来無一物の境地にたどり着けた。

座って半畳、寝て一畳

「座って半畳、寝て一畳」という言葉がある。一畳は畳一枚の広さであり、半畳はその半分だ。人はそれくらいの広さがあれば生きられる。いくら栄華を誇っても必要な広さはそのくらいだ。多くを望む必要はない。人は何も持たずに生まる、死ぬ時は何も持っていけない。空から生まれて空に帰る。そう考えるとあれが欲しいとか地位が欲しいと悩むのが虚しくなる。人は本来無一物なのだ。

慧能禅師は即身成仏となり今も中国に居られるそうだ。欲望が渦巻く現代中国を見たらどう思うだろうか。本来無一物、喝!、かもしれない。

Posted by 街の樹