禅語は最高 「行雲流水」 無理をせず流れに身をまかる

禅は難しいし禅語も難しい。だから勝手に解釈して勝手に良いと思っている。慧能禅師や道元禅師、一休さんや良寛さんも「それで良い、それで良い、Let it be じゃ」と言ってくれそうな気がする。
今日は「行雲流水」である。

行雲流水 こだわりを捨てる
11世紀、中国は北宋の時代、蘇軾という高名な書家がいた。蘇軾は弟子の謝民師に「書を書くときは雲が空を行くように、川の水が流れるように自然に筆を走らせるのだ」と教えた。上手く書こうとか他人から褒められたいと思わず無心で筆を走らせることが大切なのだ。この教えから行雲流水という禅語が生まれた(謝民師推官与書)
人は空を流れる雲や水が迸る渓流の風景を想像すると心が爽やかになる。雲のように自由に漂えたら幸せだ。水のように融通無碍に流れられたら楽しい。だが人は雲や水のように自由になれない。人はいつも悩みに縛られている。明日の試験に合格できるか。今月のローンの返済はできるか。コロナで減った収入をどう補うか。心配事でがんじがらめになっている。
悩みを抱えた男が一人いる。空に白い雲が漂い川から涼やかな瀬音が響いてくる。男は悩みを忘れて自然に身をまかそうとするが上手くいかない。そんな男の気持ちに関係なく雲はただ漂っている。川が男に悩みの解決策を教えてくれる筈もない。男はいったいどうしたらよいか頭を抱えてしまう。
雲は風まかせで漂い水は岩や石に当たりながらも流れている。雲や水は止まらない。雲には風の道があり水には流れる場所がある。同じように悩みの解決法は必ずある。男は何かにこだわりそれが見えなくなっている。
人は雲や水のように自由になれないが、悠々とした白雲や自在に流れる川の水を見ることはできる。それを眺める余裕があれば答えは見つかる。雲や水のように流れに身を任すときもいる。行雲流水は、こだわりを捨て自然体を心がけよう。それが行雲流水の教えだ。

自然に身をまかせよう
中国に渡り、五年間も坐禅をして仏法の勉強してきたけれど、仏法なんてものは何もなかった。ただ、目は横に二つ並んでおり鼻は縦にある、これだけははっきり見てきた。誰が何と言ってもだまされん。ありのままの世界を、ありのままに見る。このこと以外に仏法なぞというものはなかった。
道元禅師 臨黄ネット
「仏法などなかった、わかったのは目が二つと鼻が縦にあるだけだった」と道元禅師は弟子たちに言った。道元禅師は曹洞宗を開いた高僧である。その高僧が仏法がないと言う。弟子たちはさぞ驚いただろう。
たしかに目は二つ並んでいるし鼻は縦にある。人は自然が作ったものであり実体が存在する。仏法は人が作ったもので実体がない。仏法にとらわれて悩んでも、世界をありのままに見れば色々なことがわかる。仏法は自然のなかにある。空の雲や川の水のように自然に身をまかせることが大切なのだ。
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