禅語は最高 行雲流水 時には流れに身をまかせよう

2024年12月12日

禅は難しいし禅語も難しい。だから勝手に解釈して勝手に良いと思っている。慧能禅師や道元禅師、一休さんや良寛さんも「それで良い、それで良い、Let it be じゃ」と言ってくれそうな気がする。

今日は「行雲流水」である。

行雲流水  こだわりを捨てる

11世紀、中国は北宋の時代、蘇軾という高名な書家がいた。蘇軾は弟子の謝民師に「書を書くときは雲が空を行くように、川の水が流れるように自然に筆を走らせるのだ」と教えた。上手く書こうとか他人から評価されたいと考えずに無心で筆を走らせることが大切なのだ。この教えから行雲流水という禅語が生まれた(謝民師推官与書)

空を流れる雲や水が迸る渓流、その風景を想像するだけで心が爽やかになる。雲のように自由に漂えたら幸せだろう。水のように融通無碍に流れられたら楽しいだろう。だが人はそんな風になれない。いつも悩みに縛られている。明日の試験に合格できるだろうか。今月のローンの返済はできるだろうか。コロナで減った収入をどう補おうか。自由どころか心配事でがんじがらめだ。

ある男が悩みを抱えて歩いている。空には白い雲が漂い、川から涼やかな瀬音が響いてくる。こんなときくらい、悩みを忘れて自然に身をまかそうと思うが上手くいかない。そんな男の気持ちを他所に雲はただ漂っている。川が悩みの解決策を教えてくれる筈もない。いったいどうすれば良いのだろう。

男はもう一度空や川を見る。雲は風まかせで悠然と流れている。水は岩や石に当たりながらも流れる場所を見つけている。雲や流れは止まらない。雲に流れる空があるように、水に流れる道があるように悩みの解決法は必ずある。こだわりが強すぎてそれが見えなくなっている。

人は雲や水のように自由になれない。だが悠々と流れる白雲を眺めたり自在に流れる川の水を見ていれば心に余裕が生まれる。雲や水のように流れに身を任すことも必要だ。行雲流水は、こだわりを捨て自然体を心がけようと教えている。

自然に身をまかせよう

中国に渡り、五年間も坐禅をして仏法の勉強してきたけれど、仏法なんてものは何もなかった。ただ、目は横に二つ並んでおり鼻は縦にある、これだけははっきり見てきた。誰が何と言ってもだまされん。ありのままの世界を、ありのままに見る。このこと以外に仏法なぞというものはなかった。

                                              道元禅師 臨黄ネット

「仏法などなかった、わかったのは目が二つと鼻が縦にあるだけだった」と道元禅師は弟子たちに言った。道元禅師は曹洞宗を開いた高僧である。その高僧が仏法がないと言う。弟子たちはさぞ驚いただろう。

たしかに目は二つ並んでいるし鼻は縦にある。自然が作った姿であり、それははっきりと存在する。仏法は人がつくったもので実体がない。だから仏法にとらわれて悩むことがあるが、世界をありのままに見れば色々なことがわかってくる。

仏法は自然のなかにある。空の雲や川の水のように自然に身をまかせることが大切だ。蘇軾と道元禅師はそれを教えている。

Posted by 街の樹