禅語は最高 直心是道場 心の持ち方次第で何でもできる
禅は難しいし禅語も難しい。だから勝手に解釈して勝手に良いと思っている。慧能禅師や道元禅師、一休さんや良寛さんも「それで良い、それで良いんじゃよ、Let it be じゃ」と言ってくれそうな気がする。
今日は「直心是道場」である。
直心是道場とは
その昔、インドに光厳童子という修行者がいた。光厳童子は毘耶離城に住んでいたが、城内は騒がしく修行に集中できない。童子は騒がしさに耐えかねて静かな場所を求め城を出ようとした。おりしも一人の修行僧が城に向かって歩いてくるのに出会った。童子は、修行僧はこの騒がしい城に何をしに来たのかと訝しみ声をかけた。
「どちらから、こられたのですか」光厳童子は問う。
「道場からだよ」修行僧は答える。
光厳童子は静かな道場を探していたので更に問う。
「その道場はどこにあるのですか」
「直心是道場。わかりますかな」修行僧は答えた。
光厳童子はすぐに直心が足りなかったことに気づいた。修行僧は高名な維摩居士だった。維摩居士は、光厳童子の気持ちを見抜いて戒めたのだった。
直心とは何事にも素直に取り組む心をいう。維摩居士は道場は素直な心の中にあると説いた。直心があればどんな環境でも修行はできる。騒がしくて修行ができないというのは言い訳にすぎない。修行をする気持ちが本当にあれば城を出なくても良いのである。
素直な心(直心)をつくす
光厳童子の不満は城が騒がしいことだった。現代に生きる私達はたくさんの不満を抱えている。自分を取り巻く環境や置かれた地位に満足できない。ここは自分のいる場所ではない。ここでは何もできない。どうしてこんなに思い通りにならないのだろう。
だが世の中に自分の思い通りになる場所など有るのだろうか。何処にいてもなにかしら不満は残る。完全に満足できる場所は無い。今いる場所で不満を感じるなら別の場所でも不満を感じるに違いない。現代人は毘耶離城でなく職場にいる。そこには不満がいっぱいある。こんな職場から逃げ出したい。そうすれば不満は無くなるはずだ。
そうではない。不満が溜まるのは職場のせいでなく心のあり方だ。気持ちの持ち方が同じなら、新しい職場に移っても不満は溜まる。新しい職場を探すより直心を持って今の仕事をしてみよう。直心をもって仕事に取り組んだか考えよう。新しい働き方が見つかるはずである。
職場で不満がたかまったたら「直心是道場」を言葉を思いだそう。直心を持てばできる事は多いのだ。
最近のコメント