禅語は最高 前後際断 過去にとらわれるな

2024年2月4日

禅は難しいし禅語も難しい。だから勝手に解釈して勝手に良いと思っている。慧能禅師や道元禅師、一休さんや良寛さんも「それで良い、それで良い、Let it be じゃ」と言ってくれそうな気がする。今日は「前後際断」である。

前後際断  現在に集中せよ

「前後際断」は道元禅師の「正法眼蔵」にある言葉だ。「薪は薪の法位にして先あり後あり、前後がありといえども前後裁断あり」とある。禅語大辞典はその意味を「過去と未来を対立的にみる見解を裁断し、絶対の現在に生きるべし」としている。

薪は前と後ろがあるが端は切られている。前の端の先は未来である。後ろの端の先は過去である。薪は現在を現している。人生も同じである。人生は薪のように切られていないが、自分が存在しているのは現在だけだ。

有名な良寛さんはこの言葉が好きだった。良寛さんの言葉として紹介されることもある。夏目漱石や松下幸之助もこの言葉を語っている。漱石は「前後を切断せよ。みだりに過去に執着するなかれ。いたずらに将来に望を属するなかれ。満身の力をこめて現在に働け」と述べている。

幸之助は「どんなに悔いても過去は変わらない。どれほど心配しても未来はどうなるものではない。今、現在に最善を尽くすしかない」と言っている。前後際断が大切なのは漱石や幸之助の言う通りである。しかし実践するのは難しい。

禅語は、禅僧が厳しい修行しながら発する心の叫びである。道元禅師や良寛禅師がわざわざ言っているのは実践が難しいことの証である。人類は過去を反省し未来に備える能力で生存競争を勝ち抜いた。人は過去を後悔し未来を心配をするようにできている。それゆえに「前後際断」を意識することが重要だ。

橋元純一郎は著書「空間は存在するか」で、人がタイムマシンで過去へ行けるようになり過去に着いたとしても、そのときの自分の時間は「今」だと述べている。人が存在できるのは今だけだ。何かをすることができるのは今だけなのである。

kat7214によるPixabayからの画像

西洋の前後際断  デール・カーネギーの言葉

この考え方は日本だけにあるのではない。デール・カーネギーは「道は開ける」の第一章「悩みに関する基本事項」において、悩みを解決する方法は「過去と未来の扉を閉ざして、今日一日の区切りで生きる」と教えている。キリストは「それゆえ明日を考えるな、明日のことは明日自身が考えるだろう。一日の苦労はその一日だけで十分だ」と言っている。

サー・ライル・オスラーは、ジョン・ホプキンス大学を創立した人である。彼は若い時に進路に悩んだ。彼を救ったのが、トーマス・カーライルの言葉「我々にとって大切なことは、遠くのぼんやりするものに目をやることでなく、手近にはっきりと存在することを実行することだ」だった。この言葉が有名なジョン・ホプキンス大学を作った。

宮本武蔵も「我ことにおいて後悔せず」と言った。戦いの最中に過去の技を後悔していたら切られてしまう、今一瞬に最善の技がだせるように集中しないといけない。敗北がすなわち死だった武芸者の言葉は重みがある。

カーネギーは「今」を鋭く表現している。「私たちは無限の彼方から続いている膨大な過去と、すでに刻まれた時の末端に突き刺さっているに等しい未来との境目にいるわけだ。たぶん私たちは、この永遠不滅なもののどちらでも生きることを許されない。ほんの一瞬たりとも」 

Photo by Krys Amon on Unsplash

禅僧はこの一瞬にすべてをかけている。思えば凄いことである。

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Posted by 街の樹