禅語は最高 明珠在掌 輝く心を見つけよう

2024年9月12日

禅は難しい。禅語も難しい。だから勝手に解釈して使っている。それで良いと思っている。案外、慧能禅師も道元禅師も、一休さんも良寛さんも「それで良い、それで良いんじゃよ、Let it be じゃ」と言ってくれそうだ。

今日は、「明珠在掌」である。

明珠は仏性である

「般若の智慧の明珠、我が掌中にあり」と宋の時代の碧巌録に書かれている。般若とは、物事の実相(物事の三つの相、無常、苦、無我)を知る智慧のことだ。一生懸命に努力したなら金剛の明珠は汝の手中にある。明洙とは般若の智慧のことだ。それを知れば全ての事象の本質を見抜くことができる。

この境地を知るのは難しいが、一生懸命修行をして悟りが開ければ、世の中の全ての事象が理解できるらしい。全てを知ると言えば、インディジョーンズ・クリスタルスカルの王国に登場したソビエト連邦の女性大佐イリーナ・スパルコが、クリスタル・スカルを持つ宇宙人に「全てを知りたい」と訴え、願いは叶うがあまりの苦しさに「もう止めて」と叫ぶシーンを思い出す。知るということは苦しいようだ。

凡人は、般若の智慧の象徴である金剛の明洙を手のひらに乗せるの困難だが、本来もっている仏性を磨くことはできる。人の仏性もまた明洙に例えられる。仏性とは衆生が持つ仏としての本質、仏になるための種のようなもので誰にでも備わっている。仏性を知れば、全ての煩悩から解放されて衆生を救える。そこまでは無理でも仏性(明珠)を磨けば良いことがありそうだ。

極楽は眉毛の上のつるしもの、あまり近さに見つけざりけり

人の仏性は本来清浄である。それは赤ん坊を見ればわかる。ひたすら無垢で輝く明珠のように笑う。だが成長するにつれて明珠は曇ってくる。他人の色んなことが気にかかり、才能や境遇が羨ましくなる。どうして自分には才能や財産が無いのだろう。

親ガチャに外れたからだ。俺はインセルだと卑下して他者を攻撃したくなる。だが本当にそうなのか。本当に何も持っていないのか。元気な身体や境遇を嘆く心を持っていないか。なにより仏性を持っている。

「極楽は眉毛の上のつるしもの、あまり近さに見つけざりけり」と道元禅師はいった。幸せはあまりに近いところにあるので気づかない。しかしそれは確実にある。仏性も曇っていても無くなってはいない。明珠すなわち仏性は自分の掌の上にある。ただその珠は見えにくい、見るためには少しは修行がいる。

自分は明珠を持っている、自分の明洙はどのような珠だろうと考えるのが修行である。禅僧は悟りを開くためにひたすら座禅をする。同じ修行はできなくても自分の明珠を意識することはできる。手のひらを広げて明洙を意識すれば心が豊になりような気がする。

誰でも明洙を持っている

素直な心もまた明洙である。素直な心を持てば幸せを感じることができる。生まれたときの心は素直である。人生を送るうちに心を曇らせてしまう。曇るのは不満ばかりを言うからだ。毎日何か文句を言わずにいられない。会社はおかしい、給料が少ない、妻が冷たい、今度の上司は酷すぎる。

友人はお前の努力が足りないからだと指摘する。妻はもっと稼いでよと怒る。もう嫌だ、あれやこれやでやってられない。素直な心で世界が見られなくなっている。しかし、その友人は笑顔で挨拶してくれないか。妻は遅く帰ったあなたに笑顔でコーヒーを入れてくれないか。

みんなの親切や気配りを意識して周囲を見れば笑顔が溢れている。自分だってみんなに笑顔を返している。笑顔は明珠(仏性)の輝きだ。明珠はあなたの掌で輝いている。明珠は見えないけれど確実にある。

Posted by 街の樹