禅語は最高 明珠在掌 輝く心を見つけよう

2024年12月5日

禅は難しい。禅語も難しい。だから勝手に解釈して使っている。それで良いと思っている。案外、慧能禅師も道元禅師も、一休さんも良寛さんも「それで良い、それで良いんじゃよ、Let it be じゃ」と言ってくれそうだ。

今日は「明珠在掌」である。

明珠は仏性である

「般若の智慧の明珠、我が掌中にあり」と宋の時代の碧巌録に書かれている。般若の智慧とは物事の実相(物事の三つの相、無常、苦、無我)を知る力のことだ。般若の智慧は一生懸命に努力すれば得ることができる。金剛の明珠は般若の智慧のことであり、掌中にありとはその智慧を得たことをいう。

その力を得れば世の中の全ての事象が理解できる。全てを知るといえば、インディジョーンズ・クリスタルスカルの王国を思い出す。ソビエト連邦の女性大佐イリーナ・スパルコはクリスタル・スカルの宇宙人に「全てを知りたい」と訴える。イリーナの願いは叶うが、あまりの苦しさに「もう止めて」と叫ぶ。全てを知ることは苦しいようだ。

凡人が般若の智慧である明洙を手のひらに乗せるのは難しい。しかし自分の仏性を磨くことはできる。人の仏性も明洙に例えられる。仏性は人が持つ仏としての本質である。誰でもが持っている仏になるための種でもある。自分の仏性を完全に知る事ができれば、煩悩から解放される。仏性(明珠)を磨くと良いことがありそうだ。

極楽は眉毛の上のつるしもの、あまり近さに見つけざりけり

人の仏性は、生まれたての赤ん坊を見ればわかるように本来清浄である。赤ん坊はひたすら無垢で輝く明珠のようだ。ただその明洙は成長するにつれて曇ってくる。他者のことが気にかかり才能や境遇が羨ましくなる。物事を直にとらえられなくなる。

どうして自分に才能や財産が無いのだろう。親ガチャに外れたと嘆く。俺はインセルだと卑下する。他者を攻撃したくなる。そんなあなたは本当に何も持っていないのだろうか。元気な身体や境遇を嘆く心を持っている。なにより仏性を持っている。

「極楽は眉毛の上のつるしもの、あまり近さに見つけざりけり」と道元禅師はいった。幸せはあまりに近いところにあるので気づかない。しかしそれは確実にある。仏性は曇っていても無くなることはない。明珠すなわち仏性は自分の掌の上にあるのだ。それが見えなくなっている。

その珠は見えにくい。見るためには少しは修行がいる。修行は、自分は明珠を持っていると意識して、自分の明洙はどのような珠だと考えることである。禅僧と同じような厳しい修行はできないから、手のひらを広げて明洙を意識することから始めよう。

誰でも明洙を持っている

素直な心もまた明洙である。素直な心を持てば幸せを感じられる。生まれたときの心は素直である。人生を送るうちにそれを曇らせてしまう。不満ばかりを言っていると曇ってくる。毎日何か文句を言わずにいられない。会社はおかしい、給料が少ない、妻が冷たい、今度の上司は酷すぎる。友人に努力が足りないと言われる。妻にはもっと稼いでよと怒られる。

もう嫌だ、あれやこれやでやってられない。そんなときは素直な心で世界が見られなくなっている。友人は笑顔で挨拶してくれないか。妻は遅く帰ったあなたに笑顔でコーヒーを入れてくれないか。周囲をよく見てみれば親切や笑顔が溢れている。自分だってときには笑顔になっている。笑顔は明珠(仏性)の輝きである。明珠はあなたの掌で輝いている。明珠は見えなくても確実にあるのだ。

Posted by 街の樹