禅語は最高 「明珠、掌に在り」 自分の輝く心を信じよう

2026年5月8日

禅は難しい。禅語も難しい。だから勝手に解釈して使っている。それで良いと思っている。案外、慧能禅師も道元禅師も、一休さんも良寛さんも「それで良い、それで良いんじゃよ、Let it be じゃ」と言ってくれそうだ。

今日は「明珠在掌」である。

明珠は仏性である

「般若の智慧の明珠、我が掌中にあり」は宋の時代の碧巌録にある禅語である。般若の智慧とは物事の実相(物事の三つの相、無常、苦、無我)を知る能力である。その能力は全ての人に備わっている。それは掌中にある明珠に例えられる。だが般若の知恵を顕在化して使うのは大変だ。厳しい修行が必要になる。修行をしないでそれを得ようとすると困ったことになる。

映画インディジョーンズ・クリスタルスカルの王国にその例がある。ソビエト連邦の女性大佐イリーナ・スパルコはクリスタル・スカルの宇宙人に「全てを知りたい」と願った。彼女の願いは叶うが、あまりの苦しさに「もう止めて」と叫ぶ。全てを知るにはそれなりの修行をして心を鍛えないといけない。

人の仏性も明珠に例えられる。仏性は仏になる可能性を秘めた種である。人は自分の仏性を理解できれば煩悩から解放される。理解するとは悟りを開くことだ。人は、仏性という素晴らしい可能性を持っているが、いつもはそれに気づかない。

誰でも明洙を持っている

人は悩んでばかりいる。どうして自分は才能も財産も無いのだろう。親ガチャに外れたせいだ。俺は女性にもてない。インセルだ。なぜこんなについていないのだ。なんでも持っている人間が羨ましい、俺には何もない。全て社会や環境が悪い。そう思うと他人を攻撃したくなる。その気持は大いに理解できる。だが、あなたは本当に何も持っていないのか。

仕事もそうだ。毎日文句を言わずにいられない。会社はおかしい、給料が少ない、今度の上司は酷すぎる。友人はそんな私に努力が足りないと言う。妻はもっと稼げと怒る。もう嫌だ。もうやってられない。だがほんとうに嫌なことばかりだろうか。楽しいこともあるのではないか。そんなときは、あなたは素直な心で世界が見られなくなっているのだ。あなたの明珠を曇らせている。

俺には何もないと言っても立派な身体がある。友人は笑顔で挨拶してくれる。妻は遅く帰ったあなたにコーヒーを入れてくれる。あなたがそれに気づいていないだけだ。あなたの周りは親切や笑顔が溢れている。自分だって笑顔になるじゃないか。笑顔は明珠(仏性)の輝きである。明珠は掌で輝いている。それは見えなくても確実にある。

極楽は眉毛の上のつるしもの、あまり近さに見つけざりけり

道元禅師はいった。「極楽は眉毛の上のつるしもの、あまり近さに見つけざりけり」あまりに近いところに有る物は見えない。仏性もそうだ。自分の掌の上にある明珠ように存在するが見るために修行がいる。庶民は禅僧のような厳しい修行はできない。だから手のひらを広げて明洙を意識する。そこに明洙があると想像すれば心が清浄になる。

Posted by City Tree