禅語は最高 「明珠、掌に在り」 自分の輝く心を信じよう

2025年8月6日

禅は難しい。禅語も難しい。だから勝手に解釈して使っている。それで良いと思っている。案外、慧能禅師も道元禅師も、一休さんも良寛さんも「それで良い、それで良いんじゃよ、Let it be じゃ」と言ってくれそうだ。

今日は「明珠在掌」である。

明珠は仏性である

「般若の智慧の明珠、我が掌中にあり」は宋の時代の碧巌録にある。般若の智慧とは物事の実相(物事の三つの相、無常、苦、無我)を知る能力である。その能力は全ての人に備わっている。般若の智慧の明珠は誰の掌中にもある。だがそれを顕在化させて般若の知恵を得るのは大変だ。厳しい修行が必要である。修行を無くして全てを知ると大変なことになる。

映画インディジョーンズ・クリスタルスカルの王国に出てくるソビエト連邦の女性大佐イリーナ・スパルコもそれを望んだ。彼女は「全てを知りたい」とクリスタル・スカルの宇宙人に願った。彼女の願いは叶うが、あまりの苦しさに「もう止めて」と叫ぶ。それなりの修行をしないで全てを知ると苦痛がやってくる。

もう一つの明珠に例えられるものがある。それは人の仏性だ。人は自分の仏性を理解できれば煩悩から解放される。仏性は仏になる可能性を秘めた種である。人は般若の知恵を得る力や仏性という素晴らしい可能性を持っている。だがそれに気づかない。

誰でも明洙を持っている

どうして自分には才能も財産が無いのだろう。親ガチャに外れた。女性にもてないインセルだ。どうしてこんなについていないのだろう。社会や環境が悪い。俺には何もない。なんでも持っている人間が羨ましい、そう思うと他人を攻撃したくなる。だがあなたは本当に何も持っていないのだろうか。

仕事もそうだ。毎日何か文句を言わずにいられない。会社はおかしい、給料が少ない、今度の上司は酷すぎる。友人は努力が足りないと言う。妻にはもっと稼げと怒られる。もう嫌だ、あれやこれやでやってられない。そんなときは素直な心で世界が見られなくなっている。あなたの明珠を曇らせているのだ。

俺には何もないといっても、立派な身体があるではないか。あなたの友人は笑顔で厳しいことをいっても笑顔で挨拶してくれるだろう。妻は遅く帰ったあなたに笑顔でコーヒーを入れてくれる。あなたが気づいていなくても、よく見れば親切や笑顔が溢れている。自分だって笑顔になる。笑顔は明珠(仏性)の輝きである。明珠はみんなの掌で輝いている。明珠は見えなくても確実にある。

極楽は眉毛の上のつるしもの、あまり近さに見つけざりけり

道元禅師はいった。「極楽は眉毛の上のつるしもの、あまり近さに見つけざりけり」あまりに近いところに有る物は見えない。

明珠すなわち仏性は自分の掌の上にあるが、見るためには少しは修行がいる。禅僧のような厳しい修行はできないから、手のひらを広げて明洙を意識することから始める。手のひらを広げて明洙がそこにあると想像すれば、心が清浄になるような気がする。

Posted by City Tree