本 「眠れない一族」 食人の痕跡と殺人タンパク質の謎  

面白いけれど怖い、この物語はベネチアの高貴な一族から始まる。その一族の半数の人間は、中年期を迎えると眠れなくなり最後は死んでしまう。異常な発汗と頭部硬直、瞳孔収縮が始まり不眠症になって終わりを迎える。それでも彼らはイタリア伝統の家族主義を守り子孫を残してきた。2世紀もの長い間奇妙な病気に苦しめながらである。

眠れない一族とプリオン病

20世紀になって、一族を苦しめてきた病気は「致死性家族性不眠症(FFI)」という遺伝性のプリオン病と分かる。しかし治療法はまだ見つかっていない。彼らを苦しめるプリオンとはいったい何なのか。筆者ダニエル・T・マックスは、病気に挑む科学者たちの姿を「知的かつ不気味な医学小説」と評されるエンターテイメントに仕上げた。

物語はイタリアの呪われた一族の不眠症から始まり、欧州で流行った羊のスクレイピー、パプアニューギニアのクールー病、英国の狂牛病と広がっていく。イタリアの医者たちは、眠れない一族の病気の原因は細菌やウィルスだと考え懸命に探すが発見できない。わかったのは、病気は遺伝だが発症する者としない者に分かれることだけだった。発症の確率は50%、罹れば確実に死ぬのだ。一族の人たちが中年期までに感じる恐怖はまさにホラーである。

同じ頃、ヨーロッパで羊に「スクレイピー」と呼ばれる奇妙な病気が流行っていた。羊は病気に罹ると身体を何かに擦り続ける、性格が凶暴になり歩けなくなり死んでしまう。病気は欧州中に蔓延して牧畜産業に大きなダメージを与えた。研究者たちは原因を探すが見つからない。やがて品種改良のための近親交配を疑う。

なぜこんな美味しい物を今まで食べなかったのか

遠く離れたパプアニューギニアでも、原住民フォア族にクールー病が流行っていた。クールー病に罹ると身体を震わせながら死んでいく。村に新しく派遣された科学者、カールトン・ガイシェジェックはフォア族の食人の習慣が原因でないかと疑う。

続いて派遣された人類学者、ロバート・グラスとシャーリー・グラスは、村人からクールー病が新しい病気だと聞きだした。病気は「50年前にタワツィという先祖を食べた」ときから始まったという。宣教師が食人を止めさせると病気は減少した。クールー病と食人は関係するが病原菌を見つけることができなかった。

ガイシェジェックはノーベル賞を受賞するほどの優秀な学者だったが、少年愛好者でもある性格破綻者でもあった。フォア族も食人や男色を当然とする性のタブーのない人たちである。この両者の関係が面白い。「なんとしたことだ、なぜこんな美味しいものを今まで食べなかったのか」フォア族が初めて人を食べたときの感想である。フォア族の社会とガイシェジェックの異常性が物語のエンターテイメント性を高めている。

クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)

それらの病気の原因は、ドイツの二人の神経学者ハンス・ゲルハルト・クロイツフェルトとアルフォンス・マリア・ヤコブによって明らかにされる。彼らは1920年と1921年に症例報告を行い、ドイツの精神科医ヴァルター・シュピールマイヤーが、クロイツフェルト・ヤコブ病と名付けた。異常なプリオン蛋白質が、脳内に侵入し組織に海綿状の空腔をつくり脳機能障害を引き起こす。全身に不随意運動が発生し認知症が急速に進行するのだ。

異常プリオン蛋白質が中枢神経に沈着すると中枢神経が変異して発症から約1から2年で死亡する。他にもゲルストマン・ストロイスラー・シャインカー症候群や致死性家族性不眠症(FFI)がプリオン病に分類される。異常プリオン蛋白質は、正常プリオン蛋白質を異常プリオン蛋白質に変え、少量の異常プリオン蛋白質を摂取するだけ発症するのだ。

プリオンの発見と食人の履歴

カールトン・ガイシェジェックは、最初にクールー病、CJD、スクレービーがスローウィルスによって起こされると考えた。しかしそれは見つからない。そんなときに化学者スタンリー・プルジナーが登場する。野心に燃える彼は、病気にかかった動物の脳からあらゆる物質を抽出して実験動物に注入し、病気の再現に成功するのだった。

発見された物質は非常に小さな蛋白質だった。彼はそれをプリオンと名前けた。異常プリオンは体内に侵入すると、正常プリオンをドミノ倒しのように異常プリオンに変えてしまう。クロイツフェルト・ヤコブ病やクールー病が、異常プリオン蛋白質によっておこることはわかった。しかしまだ謎は残る、プリオン病に罹りやすい人とそうでない人が存在する、科学者の探求は続く。

50万年前、正常なプリオン遺伝子のコードはメチオニンだった。そこに、バリンをコードとする遺伝子が突然変異で現れた。その結果、人はメチオニンとバリンの二つのプリオン遺伝子を持った。母と父から、一対づつ受け継ぐので、メチオニンとバリンのヘテロ結合と、メチオニンとメチオニン、バリンとバリンのホモ結合のタイプがいる。

プリオン病に罹る人の多くはホモ結合の人たちである。ヘテロ結合の人たちは罹り難く罹っても発症しにくい。世界の民族はヘテロ結合の人が大半であることから、過去に食人によるプリオン病が流行して病気に強いヘテロ結合の人が生き残ったことがわかる。

ニコラス・ケイジに似た筆者ダニエル・T・マックスは、眠れない一族の苦悩から、ニューギニアのクールー病、家畜に伝染する謎の病気と、プリオンを発見する科学者たちの活躍をホラーサスペンスのように描き出している。ノンフィクションでありながら下手な冒険小説より面白い。まるでジェームズ・ロリンズの「アマゾニア」のようなのりである。

今、プリオン病は米国の鹿たちに蔓延している。CJDの治療法も見つかっていない。眠れない一族はどうなったか、最後まで読んでいただきたい一冊である。

狂牛病(BSE)に弱い日本人

人は、食人をプリオン病の流行した後にタブーにした。近代に商業を優先して羊の近親交配を行い異常プリオンを生み出した。現代は牛に肉骨粉を食べさて狂牛病を流行らせた。スクレイピーが狂牛病(BSE)となって帰ってきたのである。その結果、血液製剤、硬膜や角膜の移植によって感染が人に広がった。

このノンフィクションは、優れたエンターテインメントであるが、同時に人類が踏み込んではいけない領域があることを示唆している。創造主(いるなら)は、高等な哺乳類が同類を食べるのを異常プリオンを使って禁じた。近親交配による異常は遺伝子の多様性が狭まるのを防ぐ仕組みだろう。21世紀の人間は経済的な利益を求めて禁じられた領域に再び踏み込もうとしている。商業主義のための遺伝子操作の研究は続く。第2の異常プリオンが出てくる可能性が無いとはないとは言えない。

世界では、ヘテロ結合のプリオン遺伝子を持つ人が多数だが、日本人はほとんどがホモ結合である。日本人は、島国で暮らしていたことから多民族との交流が乏しく、また食人の経験もなかったらしい。BSE騒動の際はホモ結合について話題にならなかったが、日本人は狂牛病(BSE)に弱いのである。

厳しい制限に文句を言う人たちがいたが、あの制限がなければ、スペインによって天然痘を持ち込まれたインカ帝国のようになっていたかもしれない。人種差別はいけないのは当たり前であるが人種の違いは確実に存在する。

人間の創造主は色んな仕掛けをしている、それが怖くて眠れない一冊。

Posted by 街の樹