禅語は最高「青苗、春雨に慈(そだ)つ」自然の素晴らしさを知ろう

禅は難しいし禅語も難しい。だから勝手に解釈して勝手に良いと思っている。慧能禅師や道元禅師、一休さんや良寛さんも「それで良い、それで良い、Let it be じゃ」と言ってくれそうな気がする。
今日は「青苗、春雨に慈(そだ)つ」である。

カエルと日本の原風景
突然で恐縮だが田んぼで鳴くカエルの声をご存じだろうか。日本人にとって青苗といえば水田の稲である。田んぼといえばカエルである。春になると稲が育つ水田で盛大に鳴いている。カエルは日本に48種類いてその半分が固有種だそうだ。田んぼにいるのは小さなアマガエルとトノサマガエルである。関東平野と仙台平野はトノサマガエルの代わりにダルマガエルがいる。大声で鳴くのはトノサマガエルである。トノサマ(殿様)は江戸時代の大名のことだ。その名前にふさわしくトノサマガエルは勢力が大きい。
カエルは子供にとって不思議の塊である。冬の田んぼはカラカラに乾いている。カエルの気配はどこにもない。それなのに、カエルは春になって乾いた田んぼに水が張られるといつの間にか戻って、すました顔でお化けエビと一緒に泳いでいる。田植えが終わる頃にはオタマジャクシがたくさんいる。子供の頭に疑問が涌く。カエルは冬の間どこにいたのか。すこし大きくなると疑問は更に膨らむ。カエルは両生類だから水がないと生きられないはずだ。乾いた田んぼでどのようにして生きていたのか。
鳴き声もそうだ。稲が青々と育つ頃カエルは求愛のために大声を張りあげる。良く鳴いているなと聞いていると突然一斉に鳴き止んでしまう。梅雨の夜にしばしの沈黙が続く。そのうち一匹が遠慮がちに鳴きだす。するとまたみんなが揃って鳴き出す。まるで指揮者がいるようだ。子供はそんな声に自然の不思議を感じながら眠りにつく。
田んぼにいるのはカエルだけではない。ゴイサギや白鷺がカエルを狙ってやってくる。鳥たちはきおり鋭い鳴き声をあげる。梅雨時の田んぼはまことに賑やかい。これが日本の原風景である。

紅葉、秋霜を染め 青苗、春雨に慈つ
「紅葉、秋霜を染め 青苗、春雨に慈つ」中国の詩人の詩である。読んだ瞬間、秋の紅葉や春の若草の風景が脳裏に浮かぶ。実に良い詩である。日本人にとって青苗は水田の稲である。紅葉は至る所で見られる。この詩の風景は四季のある国で暮らす人にとっては普通である。だが世界の人がみんな同じように感じるのだろうか。熱帯の人は雨のイメージは湧いても紅葉のイメージは浮かばない、砂漠に暮らす人はどちらも分からない。人の想像力は体験に縛られるのである。
いやいやそんな事はないだろう。今はインターネットがあるからどんな場所に住んでいても世界中を知るができる。みんな同じように感じるはずだ。だがそうばかりとは言えない。日本人の原風景であるカエルの合唱が受難の時代を迎えている。鳴き声が騒音であるという罰当たりな人が出てきたのである。
人がうるさいから止めろと叱ってもカエルが言う事をきく訳がない。だから田んぼの所有者に文句をいうらしい。カエルにとって所有者も普通の人も関係ない。鳴くのを止めさせるには田んぼの水を無くしかない。そうしたら稲は育たない。カエルは鳴くだけでなく稲の害虫を食べる。カエルを含む田んぼの生態系が稲を育てる。実った米が人の命を支える。稲作は古代からから続いてきた人の営みである。その記憶を共有する人はカエルの声をうるさいとは感じない。
うるさいと感じる人はこの記憶を共有しない人である。日本の自然を知らずに育った人だ。そんな人は色んな音に文句をいう。SNSで怒りを拡散する。カエルの声がうるさい。セミの声がうるさい。除夜の鐘がうるさい。子供の声がうるさい。どの音も昔から聞こえていた自然の音である。人は自然から切り離された生活をしていると寛容性を失うようだ。

「紅葉、秋霜を染め 青苗、春雨に慈つ」こんな自然が直ぐ側にあるのだから、細かい事に腹をたてていないで外へ出かけよう。春雨に育つ青苗、梅雨の雨のなかに舞うホタル、田んぼで鳴くカエル、茂った稲穂を渡る風、降り注ぐ蝉時雨、秋の雨に濡れる紅葉、静かに降り注ぐ白い雪、有り余る自然があるのにスマホばかりを見ることもあるまい。自然の中に身をおけば人の小ささが分かる。「青苗、春雨に慈つ」良い響きの言葉である。






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