禅語は最高「青苗、春雨に慈(そだ)つ」自然の素晴らしさを知ろう 

2026年2月13日

禅は難しいし禅語も難しい。だから勝手に解釈して勝手に良いと思っている。慧能禅師や道元禅師、一休さんや良寛さんも「それで良い、それで良い、Let it be じゃ」と言ってくれそうな気がする。

今日は「青苗、春雨に慈(そだ)つ」である。

カエルと日本の原風景

突然で恐縮だが田んぼで鳴くカエルの声をご存じだろうか。日本人にとって青苗といえば水田の稲である。田んぼといえばカエルである。春になると稲が育つ水田で盛大に鳴いている。カエルは日本に48種類いてその半分が固有種だそうだ。田んぼにいるのは小さなアマガエルとトノサマガエルである。関東平野と仙台平野はトノサマガエルの代わりにダルマガエルがいる。トノサマ(殿様)とは江戸時代の大名のことをいう。トノサマガエルはその名前にふさわしく勢力が大きい。大声で鳴いているのはトノサマガエルである。

子供にとってカエルは不思議の塊である。冬の田んぼはカラカラに乾いている。カエルの気配はどこにもない。それなのに春になって乾いた田んぼに水が張られると、カエルはいつの間にか戻ってきてすました顔でお化けエビと一緒に泳いでいる。田植えが終わる頃になるとオタマジャクシがたくさんいる。カエルは冬の間どこにいたのか。カエルは両生類だから水がないと生きられないはずだ。乾いた田んぼでどのようにして生きていたのか。疑問は膨らむばかりである。

鳴き声も不思議である。夜の田んぼ、カエルは求愛のために大声を張りあげる。そうかと思うと一斉に鳴き止んでしまう。梅雨の暗闇にしばしの沈黙が続く。やがて遠慮がちに一匹が鳴きだす。するとみんな揃って鳴き始める。まるで指揮者がいるようだ。田んぼにいるのはカエルだけではない。ゴイサギや白鷺がカエルを狙ってやってくる。鳥たちはときおり鋭い鳴き声をあげる。梅雨時の田んぼはまことに賑やかい。子供はそんな声に自然の不思議を感じながら眠りにつく。これが日本の原風景である。

紅葉、秋霜を染め 青苗、春雨に慈つ

「紅葉、秋霜を染め 青苗、春雨に慈つ」中国の詩人の詩である。読んだ瞬間、秋の紅葉や春の若草の風景が脳裏に浮かぶ。実に良い詩だ。日本人にとって青苗は水田の稲である。紅葉は至る所で見られる。この詩の風景は四季のある国で暮らす人にとっては普通である。だが世界の人がみんな同じように感じるのだろうか。熱帯の人は雨のイメージは湧いても紅葉のイメージは浮かばない、砂漠に暮らす人はどちらも分からない。人の想像力は体験に縛られる。いやいやそんな事はないだろう。今はインターネットがあるからどこに住んでいても世界中を知ることができる。みんな同じように感じるはずだ。

だがそうばかりとは言えないことがある。日本人の原風景、カエルの合唱が受難の時を迎えている。鳴き声が騒音であるという罰当たりな人が現れた。「うるさい」と叱ってもカエルが人の言う事をきくはずがない。だから田んぼの持ち主に文句をいう。カエルはクレーマーもオーナーも区別できない。

鳴くのを止めさせるには田んぼからカエルを追い出すしかない。田んぼの水を無くすことが必要だ。だが水を抜いたら稲は育たない。カエルは稲の害虫を食べている。鳴くだけでないのである。稲はカエルを含む田んぼの生態系で育つ。実った米が人の命を支える。日本では古代から稲作が続いてきた。そんな記憶を共有する人はカエルの声が五月蝿いとは言わない。

色んな音に文句をいう人たちがいる。カエルの声がうるさい。セミの声がうるさい。除夜の鐘がうるさい。子供の声がうるさい。それをSNSで怒りを拡散する。みんな昔から聞こえていた自然の音である。それを五月蝿いという人は日本人の記憶を共有しない人だ。自然を知らずに育った人である。人は自然から切り離されて生活をしていると寛容性を失うようだ。

「紅葉、秋霜を染め 青苗、春雨に慈つ」こんな自然が直ぐ近くにある。細かい事に腹をたてていないで外へ出かけよう。春雨に育つ青苗、梅雨の雨のなかに舞うホタル、田んぼで鳴くカエル、茂った稲穂を渡る風、降り注ぐ蝉時雨、秋の雨に濡れる紅葉、静かに降り注ぐ白い雪、有り余る自然がある。素晴らしい景色の前でスマホばかりを見ることもあるまい。「青苗、春雨に慈つ」良い響きの言葉である。