月を見て思う、自分の光と他人の光 十三に棲む日
暑い日が続いているが、季節は秋に向かっている。秋といえば中秋の名月である。中国の伝説、月に女性と男性、一羽の兎が住んでいるのをご存知だろうか。
太古の中国の話、とあるところに嫦娥という絶世の美女がいた。彼女の夫は、后羿(こうげい)という弓の名人である。能力がある男がモテるのは古今東西同じである(無理ゲー社会)
嫦娥奔月という伝説
あるとき、空の太陽が十個に増えてしまった。太陽を増やすとは、さすがに中国はスケールが大きい。それも十個である、今年の日本も暑いがそれどころではない。太地は焼け住民はおおいに苦しんだ。そんなとき、嫦娥は后羿に言った。
「もう暑くってたまらない、あなた何とかしてちょうだい」美人がきついのも時代や国を問わない。
「何とかすると言っても」気乗り薄だ。
「太陽を落としたらいいのよ。もううざったいたらありゃしない、あなた弓の名人でしょ」
「落とすと言っても、何個落とせばいいのかな」
「ぜんぶやっちゃってよ、暑いし汗はかくしお化粧は崩れるし、この際だから全部落とせばいいのよ」
「そんな・・・全部落としたら昼がなくなってしまわないか」
「いいのよ、月があるでしょ、誰も困らないわよ」
「それに夜ばかりだったら、あなたがもっと頑張れるでしょ」と声が甘くなる。
この会話は想像だが、夫婦の間は昔から同じものだから、あながち間違っていないと思っている。
さて后羿 、最後の言葉は気になったが、みんなが困っているからやってみるかと崑崙山に登った。弓を取り、九つの太陽を射落としたところで考えた。やっぱり、全部はダメじゃないか、夜ばかりだったらの 嫦娥の流し目を思い出した。そこで残った一個の太陽に「真面目やれよ」と言って帰った。太陽は一つになり、毎日決った時刻に昇るようになって住民はとても喜んだ。西王母も喜んで、褒美として不老不死の薬を后羿に与えた。
嫦娥と后羿
私たちは隕石の恐ろしさを知っている、もし太陽が落ちてきたらと怖くて考えられないが、中国人それも古代人なので発想が大きい。
后羿は、意気揚々と家路に着いた「西王母様も喜んでくださった。嫦娥の言うことを聞いていたら間違いない。ご褒美も貰ったし喜んでくれるだろう」規格外れの英雄は小さなことを考えて、足取りが益々軽くなる。
ところが、家へ帰ると嫦娥が出てこない。
「帰ったよ」
「まだ一個残っているわよ、どうして言うとおりしてくれないの、私のこと愛してないのね」
家の奥からなじる声が聞こえる。困った后羿は、言い訳を始めた。
「西王母様は褒めてくれたのだよ」
「西王母様がそうおっしゃたの、だったら仕方ないわねぇ」と顔を出す、少し機嫌がなおっている。
「おまえのアイデアだよ、と言ったら、おまえのことも褒めておられたよ」
「まぁ、私のことも、そんなこと言わなくていいのに」また機嫌がよくなる。
「驚くなよ、ご褒美に不老不死の薬を貰ったんだ」
「凄いわ、でも、あなたがもう飲んだのでしょ」声の調子が下がったのは気のせいだろう。
「いや、おまえと別れないといけなくなるから、飲んでないよ」
「どうするの」
「おまえに、持っていて欲しいのだよ」
「あぁ、あなた愛してる」と丸くおさまったかどうか、あらすじ以外はフィクションだが、嫦娥奔月という伝説の前半である。
イブは林檎を食べてしまう、パンドーラーは箱をあけてしまった、嫦娥も薬を飲んでしまう。理由はいくつかあるが、薬を飲んだ嫦娥は、不老不死になり月に寂しく暮らすことになる。嫦娥が去ったのを知った后羿が空を見上げると、その日の月はひときわ明るく嫦娥の影が見えるようだ。
后羿は、嫦娥の好きだった庭にテーブルを置き、月で后羿を思っているはずの嫦娥を祭った。こうして、人々は月にいる嫦娥を偲ぶようになったのである。
(もうひとりの男性と嫦娥が二人きりと知ったら、 后羿は月を射落としてしまったかもしれない、月はまだあるので、后羿はそれを知らないようだ。男性と、北京の疫病で大活躍するウサギ、月兎のお話はまたの機会に)
他人の光、自分の光
月は、地球から384,000キロメートル離れた、直径3,474キロメートルの岩の塊である。米国と中国の国旗と探査機はあるかもしれないが、もちろん嫦娥もウサギもいない。地球とは異なり炭素と窒素が少ない。月はそのようなものだと誰もが知っている。
月は太陽の光を反射して輝いている、太陽がなければ月は光らない。后羿が太陽をすべて射落としていたら、嫦娥のいう「誰も困らないわよ」ではすまなかっただろう。現代人は、后羿の良識に感謝しなくてはいけない。月が自ら光を出していないと知っても、人は美しいと見上げる。自ら輝くか、太陽の光を反射して輝くかはどうでも良いことだ。
空にあって光っているのは、恒星と惑星と彗星と人工衛星だ、そのなかで光を出しているのは恒星のみである。おおいぬ座のシリウスと金星が見分けられなくても、さそり座のアンタレスと火星が区別できなくても何の問題もない。どちらも夜空に美しく輝いている。それでいい。
地上に月に似た人がいる。自らは光を出さずに、他人の光で自分を大きく見せようとする。他人を批判するだけの人だ。TVや雑誌に出て、いつもいつも批判ばかりしている。批判する相手が大きいほど、自分が脚光を浴びるのを知っているからだ。
自ら光をだそうとする人もいる。例えば、パラリンピックやオリンピックのボランティアの人達だ。無私の行為は小さくても、選手達の感謝や賞賛の声がSNSに上がる。夜空の星はただ光っている、だから他の光でも美しい。人の世界は違う。他人の光を利用して光るのは美しくないのである。
自ら光を発するか他者の光を利用するか、自分で決められる。世の中は光をだそうとする人たちで前に進んでいる。
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