十三に棲む日 安倍元首相の国葬に反対する逆張りの人達
安倍元首相の国葬についての議論がかしましい。日本を含む世界政治で果たした実績からすれば当然だが、そうは思わない人もいるらしい。世の中にはどんなことにも反対する人が必ず居る、それは仕方がないが、とにかく逆張りする人は少し困った存在である。
逆張り、裏張り、前張り
「逆張り」は、経済用語で相場が上がっているときに売って下がっているときに買う投資法である。人の逆を行きハイリターンを狙う。ここから派生して、世間で流行しているものや一般論、優れた結果を残している人に対し、わざと否定的な態度や意見を言う意味でも使われている。
似た言葉に「裏張り」がある。裏張りとは襖や絵画などの裏側に薄い紙や布を貼って補強する技法である。裏張りを有名にした小説に永井荷風の「四畳半襖の裏張り」がある。文豪の中年から老年の性の回顧録であり、体力のピークを過ぎた男の性の渇望が生々しい。
「火垂るの墓」を書いた反戦作家、野坂昭如が雑誌の編集長をしていた頃、「四畳半襖の裏張り」を雑誌に掲載して「わいせつ罪」で捕まった。裁判は「わいせつ性と表現の自由」を争う場になり最高裁まで持ち込まれた。作家丸谷才一が弁護人になり、当時の高名な作家が弁護側の証人となり次々に出廷した。
作家や知識人、当時のリベラルは一丸となって「わいせつ表現の自由を守れ」と戦った。最近のリベラルといわれる人達はAVを規制しろとやっている。リベラルが規制を求める側になるとは隔世の感があるが、時代は変わるので仕方がない。ただ、昭和の知性たちに比べると今のリベラルはとても非寛容に見える。
映画監督神代辰巳は、この裁判を揶揄して「四畳半襖の下張り」というロマンポルノを撮った。ツィッターで感情的な言葉や下品な表現で罵るよりよほどしゃれている。
逆張りに似た言葉がもう一つある「前張り」である。もう今の若い人はわからない言葉だろう。死語というやつである。成人映画の女優さんが、あそこやあそこの毛が映像に映り込まないように貼るシールである。不埒な男優が演技にかこつけて入れるのを防ぐためでもあったという。
前に貼るから前張りという、実に率直な名前である。女優は前張りをガーゼやガムテープで自作した、剥がすときは毛が抜けて随分痛かったそうだ。今のAVはあそこを隠す必要がない、若い女優さんのあそこには毛が無いからだ。それに入れてしまうのだから防ぐ必要もなくなった。前張りの出番はなくなってしまったのである。
日本女性の陰毛は世界で一番太く美しいらしい、それをブラジリアンワックスで抜いてしまうのはもったいない、と思うのはそれこそ永井荷風のような老人だろう。
逆張りの大御所、橋下氏
さて逆張りである。裏張りも前張りも何かにくっつくことで意味がでる。前張りはあそこにくっつくからなんとなく色気を感じる。色っぽいがなんとなく品の悪さも感じる。逆張りも同じである。何かに引っ付かないといけない。逆張りばかりのメディアに品がない。
逆張りの大御所といえば、元大阪府知事の橋下氏と今回の参院選で国会議員に返り咲いた辻本氏だろう。評価にたがわずさっそく安部元首相の国葬に噛みついている。
橋下氏によると、国葬の基準が法律で決まっていないのでダメらしい。辻本氏は、安倍氏の功績は国葬に値しないという。メディアは反対の意見が視聴者の注目を集めるので迎合する。犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだらニュースなるというやつである。
「そうですよね、安倍元首相は功績はあったけれど、国葬を良くないと思う人の気持ちも考えないといけないですからね」
「そうですよ、安部政治で苦しんだ人もいるのですよ、それで国葬はおかしいでしょ。モリカケ桜も解決してないし」
「日本には、国葬の基準がないのですよ。それで国葬をやるなんておかしいと思いませんか。馬鹿ですよ。でも反対しているからと言って辻本氏とは同じではありませんよ」
という風に話が進んでいく。誰も「二人とも反対しているのだから同じだろう」とは言わない。「国葬に賛成する人の気持ちは考えなくてもいいのか」とも言わない。メディアは常に反対する少数に寄り添う。
基準といっても時代によって功績のあり方は変わる、具体的な基準など決めようがない。せいぜい「著しい功績があった者」くらいの基準しかできない。政府が判断して決めるしかないのである。
橋下氏は、基準ができないのを知りながら言うのでたちが悪い。国民の多くは、賛成しているか、積極的に賛成でなくても反対ではないのも知っている。反対すれば注目を浴びるしマスコミも喜ぶ、だからもっともらしい反対論を言っている。逆張りの活用である。橋本氏もマスコミもウィンウィンであるが、多数の人たちへの配慮はない。
橋下氏は慰安婦問題でもウクライナ問題でも逆張りばかりしている。彼の意見は、注目はあびるが何も生まない。逆張りは前張りと同じで何かにくっつかないと存在できない。主体が無いのである。メディアは、ときに逆張りの人を孤高の人にように持ち上げるが、実際は糊口の人にすぎない。
古代中国、逆張りの本音
古代の中国、秦が滅亡し、項羽と劉邦が中原に鹿を追っていた頃ある地方に大侠客がいた。日本でいえば清水次郎長である。争いはやがて侠客のところまで及んでくる。侠客は項羽につくか劉邦につくか決めないといけなくなった。
侠客には劉備に諸葛孔明がいたように参謀がいた。カザル・シェイ・ロンのアル・レオニス、李信の河了貂である。参謀は侠客の妻の弟だった。彼は項羽に勢いがあるのを知っていたので項羽につくように強く進言した。侠客はこれまで彼の意見に反対したことはなかったが、この時ばかりは強く反対して劉邦についた。
戦いは劉邦が勝利した。参謀も子分も侠客の判断をおおいに誉めた。時が流れ参謀は亡くなり、侠客は引退して妻と旅にでる。妻は旅のはじめに侠客に言った。
「もう良いんですよ、弟は死にました」
「なんのことだ」
「だからもう良いの。あなたが弟を嫌っていたのは知ってました。良く我慢しましたね」
「知ってたのか」
「はい、でもあの時なぜ今の皇帝様に味方すると言ったの」
「あれか、あいつが正しいと思ったが、嫌いだったので一度くらい逆らいたくなったのだ」
「まぁ」
逆張りの心理とはこのようなものかもしれない。
世界の政府が弔慰を示し犯行現場への献花がダンボール1000箱を超える。日本の経済を復活させ安全保障に大きな成果をあげた安倍元首相である。逆張りの気持ちだけで国葬に反対するのは悲しい。メディアも野党も、逆張りが何も生まないのをそろそろ知るべきだろう。
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