禅語は最高 掬水月在手 弄花香満衣 分かち合えば心は安らかになる
禅は難しい。禅語も難しい。だから勝手に解釈して使っている。それで良いと思っている。案外、慧能禅師も道元禅師も、一休さんも良寛さんも「それで良い、それで良いんじゃよ、Let it be じゃ」と言ってくれそうだ。今日は、「掬水月在手 弄花香満衣」である。
水を菊すれば月手にあり 花を弄すれば香衣に満つ
冬が終わり空気も温む夜、小川の傍でふと足を止めると水面に朧月が映っている。両手で水を掬えば手の中の水にも月がある。周囲に咲き乱れる花を手に持つとその香りが服に満ちる。春の山は生命の息吹が満ちて気持ち良いことこの上ない。中国は唐の詩人、于良史の「春山夜月」の一節である。
「名月を取ってくれろと泣く子かな」小林一茶の句にある子供は中秋の名月を欲しがった。大人は子供の気持ちを理解しても月が取れるとは思わない。見てるだけで綺麗だと子供を諭す。野原に咲く花をむやみやたらに取ってはいけないと子供に教える。大人は子供を背負い月を眺めるだけで楽しい。
分かち合えば、心はやすらかになる
掬った水に映る月や服に満ちた花の香りを楽しむとき、月や香りは自分と一体化している。だが現実の月や花はそのままにある。月や花の香りは手に取れなくても、気持ちの持ち方次第で自分のものになる。多くの人たちと月や花を分かち合っているともいえる。人は色んなものを共有できるのだ。
それなのに、人はいつの世も土地や富を取り合って争っている。あれが欲しいとこれが欲しいと、欲望のままに他者から奪おうとする。それを得るために時には暴力をふるう。そんなことは止めて分かち合う気持ちを持てば春の夜のように心は安らぐだろう。独占から共有へ考えを変われば平和な社会が訪れるに違いない。
全てを自分の物にしたいと思うのは月を求める子供と同じで虚しいことだ。手の中の水に映る月や衣に満ちた花の香りに満足できれば穏やかに暮らせるのである。
大丈夫! 雲の向こうは、いつも青空。 365日を「日々是好日」にする禅のこころ
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