禅語は最高の言葉です 「年年歳歳花相似」 

2024年9月11日

禅は難しい。禅語も難しい。だから勝手に解釈して使っている。それで良いと思っている。案外、慧能禅師も道元禅師も、一休さんも良寛さんも「それで良い、それで良いんじゃよ、Let it be じゃ」と言ってくれそうだ。今回は「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」である。

年年歳歳花相似、歳歳年年人不同

また桜の季節がやってきた。人の世が変わっても、桜は毎年同じよう咲く。人々が災害や戦争で苦しんでいるときも、平和に暮らしているときも花は静かに咲いている。桜が満開になれば、辛い思いをしている人も幸せな人も、花を見ようと顔を上げる。それだけでも花は素晴らしい。

「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同年年歳歳」は、唐の劉廷芝の詩「白頭の悲しむ翁に代わりて」の第4節にある言葉だ。毎年同じように花は咲くが、花を見る人は年ごとに老いていく。自然は変わらないが人はすぐに老いてしまうという、人生の無常を嘆いた詩である。

廷芝の詠んだように、自然の悠久さに比べ人生は短く儚い。そんな人の思いと関係なく花は精一杯咲いている。老いを嘆くより、また同じ花が見みられたことを喜びたい。

禅は難解、感じるしかない

「鈴木大拙 禅(英語版)」は、禅を外国に紹介するために英語で書かれた。その本を再び日本語に訳したのが「鈴木大拙 禅 筑摩書房」である。英語を翻訳したものだから理解し易いだろうと思ったが、大きな山がそびえ立つように難しく、まるで歯がたたない。文体は古いし内容は難解だ。わかったと思ってもすぐにわからなくなる。掴みかけた魚がするりと逃げていくようである。まさに「瓢箪で鯰を捕まえる絵」である。

禅の目的は悟りを開くことだ。悟りを開くと自己の本質を知ることができる。自己の本質が理解できれば、いろんな束縛から心が自由になる。悟りを開く方法はひたすら修行をするしかない。だから禅僧は厳しい修行を続ける。

知性によって自己の本質を理解しようとすると、自己の本質と自己を理解しようする知性が、分離して別個に存在することになる。それでは自己の本質を知ったことにならない。理解するのでなく本質と知性が一体にならなくてはいけない。

しかしこれを理解するのは難しい。分かったような気がするがやっぱり分からない。禅僧は悟りを開くために苛烈な修行をする。凡人が何もしないで悟りを開けないのは当たり前である。自分なりに禅を解釈して生活に活かせばいよいのではないか。

ここに一つの禅問答がある。

一人の僧が師に問うた
悟りを体験する以前の人はどんな人間でしょうか
わしらとと同じ普通の人間だ
では、悟りの後はどうでしょう
頭は灰だらけ、顔は泥まみれ
それは結局どういうことですか
ただそれだけだ、大したことはない 

う〜ん、なんだか、わからない。

Posted by 街の樹