禅語は最高 「年年歳歳花相似」 老いを嘆くより、花を見られることを喜ぼう
禅は難しい。禅語も難しい。だから勝手に解釈して使っている。それで良いと思っている。案外、慧能禅師も道元禅師も、一休さんも良寛さんも「それで良い、それで良いんじゃよ、Let it be じゃ」と言ってくれそうだ。今回は「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」である。
年年歳歳花相似、歳歳年年人不同
また桜の季節がやってきた。桜は人の世が変わっても毎年同じよう咲く。人が災害や戦争で苦しんでいても平和に暮らしていても花は静かに咲いている。辛い思いをしている人も幸せな人も、桜が満開になれば花を見ようと顔を上げる。それだけでも花は素晴らしい。
「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同年年歳歳」は、唐の劉廷芝の詩「白頭の悲しむ翁に代わりて」の第4節にある言葉だ。花は毎年同じように咲くが、花を見る人は年ごとに老いていく。自然は変わらないが人はすぐに老いてしまう。そんな人生の無常を嘆いた詩である。
廷芝の詠むように、人生は自然の悠久さに比べと格段に短く儚い。花はそんな人の思いと関係なく精一杯咲いている。老いを嘆くよりまた同じ花が見みられたことを喜びたい。
禅は難解、感じるしかない
「鈴木大拙 禅(英語版)」は、外国に禅を紹介するために英語で書かれた本である。その本が再び日本語に訳された。それが「鈴木大拙 禅 筑摩書房」である。外国むけに書かれたものだから分かり易いと思ったが、大きな山がそびえ立つように険しくて難しくまるで歯がたたない。文体も古く難解だ。わかったと思っても、すぐに分からなくなる。それは掴みかけた魚がするりと逃げていくようだ。まさに「瓢箪で鯰を捕まえる絵」である。
禅の目的は悟りを開くことだ。悟りを開くと自己の本質を知ることができる。自己の本質を知れば、心がいろんな束縛から自由になる。悟りを開く方法はひたすら修行をするしかない。知性によって自己の本質を理解しようとすると、自己を理解しようする知性と自己の本質が、二つに分離して別々に存在してしまう。それでは本質を知ったことにならない。理解するのでなく本質と知性が一体にならなくてはいけないのだ。
しかしこれを理解するのは難しい。分かったような気がするがやっぱり分からない。凡人が悟りを開くために苛烈な修行をする禅僧と同じ境地に達せないのは当たり前である。だから自分なりに禅を解釈して、生活に活かせばいよいのである。
ここに一つの禅問答がある。
一人の僧が師に問うた
「悟りを体験する以前の人はどんな人間でしょうか」
「わしらとと同じ普通の人間だ」
「では、悟りの後はどうでしょう」
「頭は灰だらけ、顔は泥まみれ」
「それは結局どういうことですか」
「ただそれだけだ、大したことはない
う〜ん、なんだか、わからない。
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