禅語は最高 「年年歳歳花相似」 老いを嘆くより花を愛でよう 

2025年4月3日

禅は難しい。禅語も難しい。だから勝手に解釈して使っている。それで良いと思っている。案外、慧能禅師も道元禅師も、一休さんも良寛さんも「それで良い、それで良いんじゃよ、Let it be じゃ」と言ってくれそうだ。今回は「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」である。

年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず

また桜の季節がやってきた。桜は人の世が変わっても毎年同じように咲く。人が、災害で苦しんでいるときも平穏に暮らしているときも静かに咲いている。花が満開になれば、うつむきながら歩く人も花を見上げる。顔を上げるのだ。花は咲いているだけで素晴らしい。

「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同年年歳歳(年々さいさい花同じくして、年々さいさい人同じからず)」は、唐の劉廷芝の詩「白頭の悲しむ翁に代わりて」の第4節にある。花は毎年同じように咲くが人は年ごとに老いていく。自然は変わらないが人は変わってしまう。人生の無常を嘆いた詩である。

人生は自然の悠久さに比べるととても短く儚い。それを嘆いても仕方がない。嘆くより、今年もまた同じ花が見みられたことを喜びたい。精一杯咲いている花を楽しみたいものだ。

禅は難解、感じるしかない

「鈴木大拙 禅(英語版)」は禅を外国に紹介するために英語で書かれた本である。外国向けに書かれた禅の説明書だから分かり易いだろうと思ったが、難しくて殆ど分からない。文体も古く難解だ。その難しさは目の前に聳え立つ大きな山のように険しい。わかったと思ってもすぐに分からなくなる。それは掴みかけた魚がするりと逃げていくようでもどかしい。まるで瓢箪で鯰を捕まえるようだ。

禅は悟りを開くことを目的とする。悟りを開けば自己の本質を知ることができる。ただ自己の本質を知性によって理解しようとすれば、理解をする知性と自己の本質が別々に存在することになる。それでは自己の本質を知ったことにはならない。自己の本質と知性は一体にならないといけない。

これを理解するのは難しい。分かったような気がするがやぱり分からない。禅僧はそれを理解するために苛烈な修行をする。凡人はそんなことはできない。禅僧の境地に達することができないのは当前だ。それでも難しく考える必要はない。凡人は自分なりに禅を解釈して生活に活かせばい良いのである。

ここに一つの禅問答がある。

一人の僧が師に問うた


「悟りを体験する以前の人はどんな人間でしょうか」


「わしらとと同じ普通の人間だ」


「では、悟りの後はどうでしょう」


「頭は灰だらけ、顔は泥まみれ」


「それは結局どういうことですか」


「ただそれだけだ、大したことはない

 

う〜ん、なんだか。やっぱりわからない。

Posted by 街の樹