禅語は最高 「不雨花猶落」 物事は自然に移り変わって行く
禅は難しい。禅語も難しい。だから勝手に解釈して使っている。それで良いと思っている。案外、慧能禅師も道元禅師も、一休さんも良寛さんも「それで良い、それで良いんじゃよ、Let it be じゃ」と言ってくれそうだ。今日は、「不雨花猶落」である。
花は雨が降らなくてもいずれ散る
不雨花猶落(あめならずしてはななおおつ)は無風絮自飛(かぜなくしていとずからようとぶ)と対をなす詩で、白隠禅師が大徳寺の開山である大灯国師の語録に注釈を加えた槐安国語にある。
ここでいわれる花が何の花かはわからない、が日本なら桜と思いたい。絮(いと)は中国の柳の花らしい。春になって桜が綺麗に咲いたのに、雨が花を散らしてしまった。風が柳の花を飛ばしてしまった。残念なことだけれど、雨が降らなくても花はいずれ散る。風が無くても柳の花は自ら飛んでいく。そして翌年にまた咲く。それが自然の諸行無常の姿であり雨や風に責任はない。
人は失敗をすると自分のせいだと反省する。それは大切なことだが、いつまでも後悔を引きずって次に進めない人がいる。それは雨が花を散らしたと雨を恨み続けるようなものかもしれない。雨が降らなくても花は散るのだ。失敗もあなただけの責任ではないかもしれない。
歴史を作った人物はいない
モンテスキューは言っている「マルティン・ルターが宗教改革をもたらしたとなっている。だが彼がいなくても宗教改革はいずれ起こっていただろう。ルターがいなかったら他の誰かが改革をしていたはずだ」
ロルフ・ドベリも」著書「Think clearly」でこう述べている。偉大な発見や発明を達成した人は立派だが、彼らがいなくてもそれらはいずれは誰かがしたはずだ。歴史上の出来事は、その時代の流れや周囲の影響を大いに受けた結果生じた偶然の産物である。歴史上の重要人物は当時起こった出来事の登場人物の一人にすぎない。歴史を作った人物はいない。
こういわれると、歴史のロマンが無くなるようで見もふたもない。個人の努力はどうなるのかと言いたくなる。だが人に起こる出来事はその人の行動だけの結果ではないことは確かだ。だから結果が悪くても、いつまでも自分の責任だと囚われ続けたり、自分だけでなんとかしようと気負い過ぎないことだ。雨が降らなくても花は落ちる。失敗も世の無常と割り切り前へ進む気持ちが大切なのである。
しかし桜が咲くと雨がふるのは何故だろう。
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