本 「無理ゲー社会」若者が生きにくい現代社会の本質

2024年2月25日

若者にとって現代社会はなんとも生き難い社会らしい。筆者が参加した「参議院自民党の不安に寄り添う政治のあり方勉強会」に、多くの若者から将来に絶望し安楽死を希望する意見が寄せられた。筆者は若者が絶望する社会を攻略不可能なゲームに例え「無理ゲー社会」と名付けた。

現代は過去に比べはるかに自由な社会である。それなのに若者は生き難いと感じている。いったい何がそれほど若者を苦しめるのだろう。苦しめるものの一つに能力の差がある。だが今のポリコレは人は平等であり能力の差は言っていけないものとする。人の能力の差を認めるか否か。自由はあるが人の能力の差を認めない考え方が、無理ゲー社会を生み出すことが数々のデーターから明らかになる。

自分の最後くらい自分で決めたい

「子供にお金を使い(一人当たり大学まで約2000万)、親にお金を使い(施設2名3000万)、老後に自身が生きる蓄えはできるでしょうか。自分の子に迷惑をかけ、なにも生産できず、死ぬのを待つだけなら、条件付きの安楽死を合法化してほしいです」(神奈川県、20代)

無理ゲー社会  橘 玲(著) 小学館新書

引用は前述の「参議院自民党の勉強会」に寄せられた意見の一つである。「安楽死の権利」を求める意見は他にも多くあったという。20代といえば希望に燃えて人生でいちばん楽しい時期なのに、老後を心配して「安楽死」を求めるのどう考えてもおかしい。

たしかに、低収入や年金制度の破綻、低い結婚率、少子化、2000万円問題、非正規雇用、一部の成功者と取り残された者の格差は大きく、若者を囲む現実は厳しい。だが低収入や生活苦は昔からあった話であり、いつの時代も若者は安楽死を求めなかった。

それなのに安楽死を求めるのは現代特有の理由にある。昔に無かった厳しいもの「自分探し」が大きく影響する。過去の成功は、社会的に高い地位を得たりや経済的に裕福になるという分かり易いものだった。第2次大戦後、先進国は豊かになり社会のリベラル化が進んだ。リベラルは個人に自由に生きることを求めた。そのせいで個人は自由に生きていることを証明しなければならなくなった。

その証明は他者に「自分が何者であるか」を示すことである。そのためにはまず「自分」を探さないといけない。成功の条件に、経済的・社会的成功以外に「自分の証明」が追加されたのである。ただ「自分を探して自分を証明する」とはどういうことだろう。それを説明するのは難しい。

人生ゲームに「自分探し」が加わったことで難易度は格段に上がった。若者は成功と自分の証明の二兎を追わねばならず、結局一兎をも得られない若者が増えた。さらに経済や社会な的成功の難易度も上がった。安定した社会は、能力や資産をもつ者が有利になる。金持ちの子供は、知能や資産などの全てにおいて、シングルマザーの子供を凌駕する。親によってゲームの難易度が決まる。持たない親を持つ子供は生まれた瞬間に「無理ゲー」に放りこまれる。

子供は自分で出生環境は決められない。どんな親のもとに生まれるかは、神や天の意思であり、ガチャポンと同じである。若者は人生をガチャポン、親ガチャと表現する。親ガチャで人生が決まるのなら、最後くらいは自分で決めたい、安楽死をしたいと思うのも無理はない。

息苦しさか活き活きか by photolibrary

リベラル化が生んだ「無理ゲー社会」

どうして「自分探し」が必要な世の中になったのか。リベラル化が進むと身分制度や社会的制約が減り職業選択の自由が増加する。誰でも望む生き方を選べる。みんなが自由に生き方を選べば当然のことながら個人間の競争が激しくなる。競争になれば能力の高い者が有利になる。

リベラルは自由と公平を求めるが個人の差を認めない。人はみな平等でないといけない。小学生の100m競争に例えれば、公平は全ての子供が同じスタートラインに並ぶことである。走りだすと必ず順位がつき足の早い子供が常に勝利する。格差が発生するのだ。

結果を平等にするなら、みんな同時にゴールに入らなければいけない。子供の足の速さにあわせてスタートラインを変える方法もあるがそれでは不公平になる。個人の能力の差は必ず存在する。しかしリベラルは能力の差は認めない。それではどうするのか、順位を無視するのである。

リベラル化は、若者を能力や資産に関係なく同じスタートラインに並べてしまう。能力や資産の差を無視をして並べる。その結果生まれたのが、親ガチャ、遺伝子ガチャ、知能格差、経済格差、性愛格差である。その社会で「自分が何者かを証明」するのは簡単ではない。

マスコミや一部の成功者は「自分探し」を素晴らしい称賛する。「自分を見つけた」とは、経済的社会的に成功して、尚且つ他者から「彼は成功している」と称賛を受ける状態だろう。本人も社会的経済的に成功していても賞賛がなければ満足できなくなっている。

だが、いったいどれだけ称賛を受ければ満足できるのか。それが分からない自分探しというゲームは、難度が高いというよりゴールがない。ゲームに勝つというより負けない唯一の方法は、最初から参加しないことだが若者自身が自分探しという言葉に酔って降りられなくなっている。

若者たちはエネルギッシュ by photolibrary

無理ゲー社会が生む矛盾

無理ゲー社会が生み出す影響はいろんな所に広がっている。米国のラストベルトの人たちは格差を憎みトランプ大統領を誕生させた。格差への怒りは、エリオット・ロジャーや加藤智大ような大量殺人者を生んだ。未来への絶望は、破壊行為や絶望死に繋がる 米国では大学を出ていない白人の絶望死が増え続けている。

絶望死は仕事や家庭が上手くいかずドラッグやアルコールに溺れ最後は自殺や病気で死ぬことだ。大学を出ていない白人の絶望死は大卒者の2倍の数になる。知能格差が経済格差に繋がった結果である。大学を卒業できる否かで人生が決まってしまう。その経済格差は残酷にも生殖にまで及ぶ。

経済的に成功した男(女)は良い女(男)を独占する。良い女は良い男に群がり、相手にされない男は取り残される。残された男はインセルという女性を敵視する男になる。インセルは女にモテる男チャドや、チャドを追いかける魅力的な女ステイシーを憎む。

インセルの不満はときに無差別大量殺人になって爆発する。彼らは殺人者エリオット・ロジャーを批判せずインセルの神に祭りあげる。なんともはやである。

はじめに  「苦しまずに自殺する権利」を求める若者たち

PART1   「自分らしく生きる」という呪い

PART2   知能格差社会

PART3   経済格差と性愛格差

PART4   ユートピアを探して

エピローグ 「評判格差社会」という無理ゲー社会 

メリトクラシーという考え方

「無理ゲー社会」を作るのはメリトクラシーという考え方である。今はメリトクラシーは能力主義と訳される。提唱者イギリス学者マイケル・ヤングは、人が得る利益は知能+努力=利益であり、人は出生や身分に関係なく達成した業績によって公正に評価されるべきと考えた。

公正な評価基準は、みんなが挑戦でき努力をすれば獲得できるもの、すなわち学歴、資格、経験(実績)だ。努力すれば成功できるのがメリトクラシーだった。ところが実際は努力にかかわらず知能や能力の高い者が成功する社会になった。その後ヤングは知能に差があることを認めメリトクラシーを言わなくなる。

知能と努力を足し算すると結果は知能が高く多く努力した人間が成功する。努力だけで成功できないのは事実である。しかし、リベラル社会は知能や能力の差を認めない。知能が同じであれば結果は努力の大きさ依存する。個人が成功できないのは努力不足になる。

努力次第だから、成功するのもしないのも個人の責任になる。個人の責任から生まれる格差は仕方がないと、メリトクラシーは格差社会を肯定するのである。

格差社会を救う希望の四騎士

それでは格差社会を無くすことはできないのだろうか。アメリカの歴史学者ウォルター・シャイデルは平和が続くと不平等が拡大する法則を発見した。平和であれば能力の高い者や資産を持つ物が有利になる。先進国では長く平和が続いたために格差社会になった。

それを平等な社会に戻すには「戦争」「革命」「統治の崩壊」「疫病」によって社会が一旦リセットされる必要があるという(コロナは力不足だそうだ)シャイデルはそれを四騎士と呼んだ。ただ四騎士が登場すれば多くの犠牲者がでる。そうなれば人は四騎士を遠ざけ犠牲者を救う。よって格差社会は解消しない。格差社会のリセットは人にとって容易ではない。だが別の考え方もある。

経済学者アンドリュー・マカフィーは、希望の4騎士を提言している。「テクノロジーの進歩」「資本主義」「反応する政府」「市民の自覚」があれば格差を減らせるのだ。政府や市民が、格差の存在を自覚し進歩した技術を使い弱者を支援すれば格差を減らせる。個人の能力の差をテクノロジーが補う。そして、過度な競争と勝者への礼賛を抑制すれば社会は変えられるのだ。

筆者は無理ゲー社会の改善に悲観的だが、マカフィーは改善できると言う。マカフィーの理論により格差社会を改善するためには、まず人々が格差の存在を知らないといけない。現在の格差社会はどのようなものか、この本が実態を教えてくれる。

無理ゲー社会からの脱出 Living for Todayの考え方

先進国の若者は総じて社会の息苦しさや格差に苦しんでいるようだ。とりわけ日本の若者は老後や親の介護までを心配して絶望している。しかし40年後の未来などどうなっているのかわからない。世界は不確実に満ちている。そんな将来まで心配をできるのは裕福なゆえだが、若者にそれを言っても慰めにならない。しかし、若者ももっと今に生きても良いのではないだろうか。

世界をみれば、遠い将来を心配せずに生きている人たちがたくさんいる。その日暮らしの生活、Living for todayである。そのような国のひとつ、タンザニアの若者たちのこんな言葉がある「その日暮らしの人類学

誰でもいいから助けてくれないかと、アドレスの順に沿って電話する。毎日のように金を送り合っているので、たまに誰からいくら借りてだれにいくら貸しているのか混乱する、ただ、その時々に金を持っていた誰かが食い扶持をくれたことに変わりがない。自分だって金があるときそうしている。

キオスク店主 20代なかば 同著

彼らは貧しいけれど人との繋がりを頼りに「前へ前へ」進んでいく。彼らにとって未来は心配するものでなく切り開くものである。生活がいかに苦しくても自分勝手な理由で凶器を振るう人間はいない。先進国の若者は豊かな社会に暮らしながら孤立している。発展途上国の若者はスマホくらいしか持っていないが助け合って暮らし「無理ゲー」を感じない。Living for todayの生き方に「無理ゲー社会」を改善するヒントがあるのではないだろうか。

Posted by 街の樹