本 「無理ゲー社会」若者が生きにくい現代社会の本質
若者にとって現代社会はなんとも生き難い社会らしい。筆者が参加した「参議院自民党の不安に寄り添う政治のあり方勉強会」に、将来に絶望し安楽死を希望する意見が多くの若者から寄せられた。筆者は若者が絶望する社会を攻略不可能なゲームに例え「無理ゲー社会」と名付けた。
現代は過去に比べはるかに自由な社会である。それなのに若者は生き難いと感じている。いったい何が若者を苦しめるのだろう。その一つに能力の差がある。今のポリコレは人は皆同じであり能力の差は言ってはいけないとする。自由な社会なのに能力の差を認めない考え方が無理ゲー社会を生み出した。それは数々のデータに現れている。
自分の最後くらい自分で決めたい
「子供にお金を使い(一人当たり大学まで約2000万)、親にお金を使い(施設2名3000万)、老後に自身が生きる蓄えはできるでしょうか。自分の子に迷惑をかけ、なにも生産できず、死ぬのを待つだけなら、条件付きの安楽死を合法化してほしいです」(神奈川県、20代)
無理ゲー社会 橘 玲(著) 小学館新書
引用は前述の「参議院自民党の勉強会」に寄せられた意見の一つである。「安楽死の権利」を求める意見は他にも多くあったという。20代といえば希望に燃えて人生でいちばん楽しい時期なのに、老後を心配して安楽死を求めるのはどう考えてもおかしい。
低収入や年金制度の破綻、低い結婚率、少子化、2000万円問題、非正規雇用、一部の成功者と取り残された者、若者を囲む現実は厳しいが、低収入や生活苦はいつの時代にもあった。それでも若者が安楽死を求めることはなかった。
若者が安楽死を求めるのは現代特有の理由があるからだ。最近よく話題になる「自分探し」の影響が大きい。過去の成功は、社会的に高い地位を得ることや経済的に裕福になるという分かり易いものだった。戦後、先進国は豊かになり社会のリベラル化が進んだ。リベラルは個人に自由に生きることを求め、個人は自由に生きていることを証明しないといけない。
それは「自分が何者であるか」を他者に示すことである。そのために「自分は何者か」を探さないといけない。成功の条件に「自分の証明」が追加された。「自分を探して自分を証明する」をしないといけないが、「自分探し」など言葉は存在しても何をしたらよいか分からない。
「自分探し」が加わったことで人生ゲームの難易度は格段に上がった。成功と自分の証明の二兎を追い、結局一兎をも得られない人が増えた。経済的や社会的な成功の難易度はもともと高い。平和で安定した社会では能力や資産をもつ者が有利になる。金持ちの子供は資産だけでなく知能などの全てにおいてシングルマザーの子供を凌駕する。親によってゲームの難易度が決まるので、財産を持たない親の子供は生まれた瞬間に「無理ゲー」に放りこまれる。
子供は自分で出生環境は決められない。どんな親のもとに生まれるかは神や天の意思でありガチャポンと同じである。若者は、あまりにも理不尽なこの事実を親ガチャと表現する。人生が親ガチャで決まるのなら最後くらいは自分で決めたい、安楽死を求めるのも無理はない。
リベラル化が生んだ「無理ゲー社会」
リベラル化が進むと身分制度が無くなり社会的制約が減る、職業選択の自由も増加する。誰でも望む生き方を選べるようになった。みんなが自由に生き方を選べば当然のことながら個人間の競争が発生する。競争になれば能力の高い者が有利になる。
リベラルは自由と公平を求めるが個人の能力の差を認めない。人はみな平等であらねばならないからだ。100m競争でいえば、公平は全ての子供が同じスタートラインに並ぶことだ。走りだすと足の早い子供が勝利し順位がつく。そこに格差が発生する。結果を平等にするならみんなが同時にゴールに入らなければいけない。
子供の足の速さにあわせてスタートラインを変えれば良いがそれは公平ではない。個人の能力の差を認めず結果を平等にするには順位を無視するしかない。リベラル化は若者を能力や資産に関係なく同じスタートラインに並べてしまう。能力や資産の差に関係なく並べた結果、生まれたのが、親ガチャ、遺伝子ガチャ、知能格差、経済格差、性愛格差である。そんな社会で自分が何者かを証明するのは簡単ではない。
マスコミや一部の成功者は「自分探し」を称賛する。自分を見つけた状態は経済的社会的に成功して、且つ他者から彼は成功していると称賛を受ける状態だ。だが一体何人がそんな状況を手に入れられるだろう。どれだけ称賛を受ければ良いのかも分からない。自分探しというゲームは難度が高いというよりゴールがない。ゲームに勝つ唯一の方法は、最初からゲームをしないことだが、若者自身が自分探しという言葉に酔って降りられなくなっている。
無理ゲー社会が生む矛盾
無理ゲー社会が生み出す影響はいろんな所に広がっている。米国のラストベルトの人たちは格差を憎みトランプ大統領を誕生させた。格差への怒りはエリオット・ロジャーや加藤智大ような大量殺人鬼を生んだ。格差の底辺にいる非大卒の白人の絶望死が増え続けている。
絶望死とは仕事や家庭が上手くいかず、ドラッグやアルコールに溺れ自殺や病気で死ぬことだ。白人の非大卒者の絶望死は大卒者の2倍になる。大学を卒業できる否かで人生が決まってしまう。更に知能格差は経済格差に繋がる。更に経済格差は残酷にも生殖にまで及ぶ。
経済的に成功した男(女)は良い女(男)を独占する。良い女に相手にされない男は、インセルと呼ばれる女性を敵視する男になる。インセルは女にモテる男チャドや、チャドを追いかける魅力的な女ステイシーを憎む。インセルの不満はときに無差別大量殺人になって爆発する。殺人者エリオット・ロジャーはインセルの神になる。なんともはや救いのない世界である。
はじめに 「苦しまずに自殺する権利」を求める若者たち
PART1 「自分らしく生きる」という呪い
PART2 知能格差社会
PART3 経済格差と性愛格差
PART4 ユートピアを探して
エピローグ 「評判格差社会」という無理ゲー社会
メリトクラシーという考え方
無理ゲー社会はメリトクラシーという思想から生まれた。提唱者のイギリス学者マイケル・ヤングは、人が得る利益は知能+努力=利益であり、人は出生や身分に関係なく達成した業績によって公正に評価されるべきだと考えた。公正な評価基準とは誰もが挑戦できて努力をすれば獲得できるもの、学歴、資格、経験(実績)である。努力すれば成功できるのがメリトクラシーだったが、現実は知能や能力の高い者が成功した。ヤングは知能の差を認めメリトクラシーを言わなくなったが、思想は広がった。
知能が高くてたくさん努力した人間が成功するのは当然である。知能がないち努力だけでは成功できない。しかしリベラルは個人の差別になるから知能や能力の差を否定する。知能が同じならの成功は努力の大きさの結果になる。功できないのは個人の努力不足だ。個人の努力次第だから結果は個人の責任であり、そこから生まれる格差は仕方がないとなり、メリトクラシーは格差社会を生み出す思想になった。
格差社会を救う希望の四騎士
格差社会無くならないのか。アメリカの歴史学者ウォルター・シャイデルは、平和が続くと不平等が拡大する法則を発見した。平和なときは能力の高い者や資産を持つ者ほどが有利になる。先進国は長く平和が続いたために格差が大きくなった。
平等な社会に戻すためめには、戦争、革命、統治の崩壊、疫病によって一旦リセットされなければならない(コロナは力不足だった)シャイデルはそれを四騎士と呼ぶ。人間は、四騎士が登場して多くの犠牲者がでると、四騎士を遠ざけ犠牲者を救う。だから格差は解消しない。人にとって格差社会のリセットは人にとって容易ではない。
これに対して経済学者アンドリュー・マカフィーは、希望の四騎士を提言している、テクノロジーの進歩、資本主義、反応する政府、市民の自覚があれば格差を減らせる。政府や市民が格差の存在を自覚し、進歩した技術を使って弱者を支援すれば格差は減らせる。個人の能力の差をテクノロジーが補い、社会が過度な競争と勝者への礼賛を抑制すれば変えられるという。
筆者は無理ゲー社会の改善に悲観的だがマカフィーは改善できると言う。マカフィーの理論によれば格差社会を改善するためには人々が格差の存在を知らないといけない。今の格差社会はどのようなものか、実態を教えてくれる一冊。
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