フィリピン旅行 イントラムロス幻想 ホセ・リサール
サンチャゴ要塞の奥まったところに、フィリピン独立の英雄ホセ・リサールの記念館があります。その側に、本を手に講義を行っているような銅像が経っています。彼は26歳の時に小説「ノリ・メ・タンヘレ(我にさわるな)」を書きました。小説はフィリピン独立運動に大きな影響を与えやがて独立運動の象徴になります。
フィリピン独立の英雄、天才学者ホセ・リサール
ホセ・リサールは、勇ましい英雄タイプではなく天才的な学者でした。中国の殷(酒池肉林で悪評)を倒した商の武王の弟の子孫がフィリピンの女性と結婚してできた父親と、日本人とスペインの血を引く母親から生まれた、生い立ちからして国際的な人物でした。
家は裕福で、ヨーロッパへ留学することができました。医学や哲学の才能に加え、語学に天才的でありなんと20数カ国の言語を話せました。勉強の合間に書いた「ノリ・メ・タンヘレ」が多くの支持を得たことは文学の才能もあったことを示しています。作品は多くのフィリピン人の心を捉えましたが、同時にスペイン政府から目をつけられてしまいます。
リサールとおせいさん フィリピンと日本、国境を越えた恋
リサールは「ノリ・メ・タンヘレ」を書いた後フィリピンに戻りますが、身の危険を感じて再びヨーロッパへ向かいます。その途中トランジットで日本に立ち寄ります。彼は、なんとその短い期間に日本女性をナンパ(された)します。彼はエキゾチックな顔立ちをしていてとてもモテたそうです。相手は「おせいさん」と呼ばれる、英語を話せる元旗本のお嬢さんでした。
二人は歌舞伎をみたり日光や箱根を旅行を楽しみながら滞在は二ヶ月近くに伸びます。時代は明治21年、今から133年前の東京です。そんな街を国際的なカップルが歩いていたとはハイカラさんが通るどころではありません。
おせいさんの両親は、リサールがスペイン公館に泊まる青年とはいえよく付き合いを許したものです。子を持つ親としては気になるところです。
奥方 「旦那様、せいこが殿方とお付き合いしてるようですのよ」
主人 「せいこも年頃だろう。世は明治だ、時代は変わったのだ」
奥方 「それがね、お相手の方は、外国の人らしいの」
主人 「なに! う〜ん・・・」
夢のような日々はいつまでも続きません。彼はヨーロッパへ旅立ちます。彼はおせいさんが自分をとても愛してくれたと書き残していますが、この愛を誰にも話しませんでした。亡くなって後に、日記帳にはさまれたおせいさんの写真が見つかり、初めてわかったのです。おせいさんは、別れた後も独身を続けましたがリサールが処刑されたことを聞き英国人の大学教授と結婚しました。
フィリピン大使館、おせいさんのお墓にお花を供える。
おせいさんは80歳で亡くなり、今は東京の雑司が谷のお墓に眠っています。リサールの命日にフィリピン大使館から毎年お花が供えられるそうです。粋ですねぇ・・・と言いたいところですが、一緒にいる旦那さんに良いのでしょうかね。
おせいさんは正しくは臼井勢似子さんと言います。おせいさんの肖像画も博物館に展示されていますが、絵より写真のおせいさんのほうが美人かもしれません。
リサールの悲劇とフィリピンの独立
スペインは、ヨーロッパから帰ったリサールを捕まって流刑にします。独立運動の団体の結成に関わった疑いでした。彼は穏健な独立を目指していたのですが闘争は過激になっていきます。それでも、彼は流刑地で医者や教師として住民に接していました。そのうちに許されて軍医になるチャンスがやってきます。
彼がキューバへ赴任する途中、独立闘争が始まります。影響力を恐れていたスペイン政府は、彼をフィリピンに連れ戻しサンチャゴ要塞に幽閉します。今も、収監されているイメージが人形によって表現されています。ただ、リーサルは記念館になっている建物に暮らしていたようです。
戻されて二ヶ月半ほどたった頃、軍法会議が開かれ彼の処刑が決まります。彼は処刑の日処刑場まで歩かされました。その足跡が黒い塗料で描かれています。足枷をかけられていたせいで狭い歩幅になっています。リサールは、刑場に着き多くの民衆が見守るなか銃殺されます。(その絵が展示されています)この処刑はフィリピンの人たちに怒りの火をつけただけで独立運動を止める効果はなかったのです。
リサール公園 そびえ立つ記念碑
時は流れ、スペインは去りアメリカの統治を経て1946年7月4日にフィリピンは独立を達成します。リサールが処刑された場所に高さ15mの記念碑が立ってフィリピンの国旗が翻っています。フィリピンの人たちは、ここを通る度にリサールを思い出すのでしょう。
フィリピンは多くの島々からなり、多くの民族が住む海洋国家です。今も国境を気にしない海の民がいます。フィリピンや東南アジアの島々に住む人たちは、昔から海を行き交う自由な精神を持っていました。フィリピンは、独立後も何度も政治的な混乱に見舞われますが、国民は強い精神力で乗り切ってきました。ただ、これからも混乱は起こるでしょうが、願わくば日本との友好は続いて欲しいものです。
フィリピンと日本の交流の歴史は古かった
イントラムロスを訪れると、日本とフィリピンの交流は思った以上に古くから有るものでした。古代から、海洋民族として繋がっていたのです。一時期の辛い時期はありましたが、今は友好的な間柄です。同じ海の民として通じるものがあるのでしょう。
フィリピンの人たちの陽気で優しい性格(ときには過激)は、スペイン統治とキリスト教の影響なのかメキシコの人たちに似ています。(マリアッチがやってくるレストランもある)その陽気さに惹かれる日本人も多いと思います。
イントラムロスに行く大航海時代のロマンを感じられます。大航海時代は、植民地や奴隷など負の面もありますが、雄大な歴史に惹かれる時代です。その時代の歴史の片鱗に出会える場所、おせいさんを愛したリサールに出会える場所は一見の価値ありです。ただし、バットタイム・バットプレースのルールはお忘れなく。
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